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魂の羽化師は夢を斬る 平安鎮蝶譚  作者: 平本りこ
二章

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5 終わりを見ないで

「おまえは今日から私の息子だ」


 まだ若く、烏帽子から覗く頭髪が黒々としていた頃の守影友潤(もりかげのともみつ)が、抑揚に乏しい声音で言う。


「修練もなしに実母を羽化させたその才覚を、帝と国のために存分に発揮せよ」


 羽化した母が遺した蛹石の殻を手に主家へと向かった幼き日の(はやて)を迎えたのは、たった今認知したばかりの実子に向けられる温情ではない。それどころか、長年自邸に仕えた下女の死を悼む言葉ですらなかった。


「殿が、俺の父親ですか?」

「そう言っておる」

「何かの間違いです。だって母はそんなこと一言も……」

「里人の 言は夏野の しげくとも かれゆく君に 逢わざらめやは」※引用:古今和歌集 704番

「その歌は……」


 友潤の人差し指が、すっと伸ばされて颯の袴の紐辺りを差した。たった今耳にした歌に思考を奪われた颯を追い打つように、友潤は何の感動もない表情で口を動かす。


「その扇は私が贈ったものだ」


 颯は息を呑み、ゆっくりと扇を撫でる。和歌が記されたそれは、母がいつも大切そうに眺めていた品だ。裕福ではない母子に遺された、唯一の遺品でもある。


 まだ元服前の颯だが、その和歌が恋の歌であることは容易に察せられた。


 生前、扇を見つめる母の眼差しがあまりにも切なげだったので、この扇を母に渡したのはきっと、颯の父親なのだろうと察していた。


 離れていく恋人への焦がれるような愛おしさを夏の野に見いだし紡いだ歌を母にくれたその人は、どれほど愛情深く誠実な男だろうかと想像して胸を高鳴らせたこともある。しかし、その相手が主家の当主であるなどとは、思いもよらないことだった。


「その扇だけではない。おまえが、ずば抜けた羽化師の才を持つことも、我が一族の血を引くという証左だろう。だから」


 存分に役立ってくれと、父は言った。






「っ……」


 強烈な寒さを覚え、颯は震えながら瞼を上げた。


 全身が強張り、感覚が鈍い。靄がかかったかのような頭を振って、状況を思い出そうと試みる。


 右京の廃屋敷から左京の獄所まで見せしめのように引っ立てられたのは、早朝のこと。


 検非違使に見つかる原因となった柏正則(かしわのまさのり)蝶夢(ちょうむ)はすぐに閉じてしまい、蛹石は光を失った。それが幸いし、蛹石は今のところ懐の奥におとなしく隠されており、没収はされていない。


 着の身着のまま荒縄で拘束されて禁獄されているのだが、処刑となれば身体改めを受け、蛹石が見つかってしまうかもしれない。


 その前に誰かに託したいところだが、囚われの身では不可能か。


「最悪だな」


 颯は縄が擦れて血の滲む手首に顔をしかめてから、両手を下ろす。土が剥き出しになった地面は霜でも降りそうなほど冷えている。薄くて小さな筵が一枚放り込まれているが、敷くにしても掛けるにしても寒さをしのぐには心許ない。嘆息すれば、息は白く凍りつく。


「ここまでか」


 魂蝶寮(こんちょうりょう)を除籍されてから、市井で生きる方法は他にもあったはずだ。しかし、危険を犯してまで哀れな蛹石を羽化させ続けたのは、決して正義の心が理由ではなかった。


 もちろん、権力と金銭におもねる魂蝶寮のやり方に反感を覚えていたことは確かだ。だが、颯を突き動かしていたのは、父への反発であったようにも思える。


 利用価値があるからと息子として迎えられ、己の意図通りに動かぬと知れば弁明もさせずに追放する。そんな父が作り出す魂蝶寮の秩序に陰ながら反することで、自我を保っていたのだろう。我がことながら、屈折した感情を持て余して過ごした日々に自嘲する。


「あの男は、処刑場にも来ないだろうな」


 颯の死を、誰か悼んでくれるだろうか。過去に羽化の依頼をくれた遺族たちくらいは、哀れんでくれるだろう。別に誰かに泣いて欲しいわけではないが……。


(……涙を見たばかりだ。そう、彼女の……)


 脳裏に、凜とした顔立ちに似合わない潤んだ瞳が蘇る。


 ――都合のいい小娘だ。そんな風に私のことを見ていたのでしょう?

(綾埜、それは違う)


 寒さで意識が朦朧とする。背中が冷えているからか、冷たいとも感じなくなった壁面に背中をもたれかけさせ、颯は天井を仰いで目を閉じる。


 ――颯。


 怒ったり感心したり時々笑ったり。くるくると変わる綾埜の表情が瞼の裏を彩って、思わず頬が緩んだ。


(あいつは泣くかな。いいや、できることなら怒ったままでいて欲しい)


 死を悼んで欲しいと望みつつ、悲しませたくないと願うこの心の複雑さを持て余す。いずれにしても、もう二度と会うことはない。だが、それでいい。綾埜はいつか、立派な羽化師になる。ほんの一時、双翅ごっこをした男のことなど、早々に忘れてしまうべきなのだ。


 どうせ彼女は、幼い頃に出会った颯のことなど、覚えていないのだろうから。


 ――颯。


 諦めようとする度に、綾埜の声が脳裏にこだまする。


 生まれ変わったら、魂蝶寮で順調に身を立てて、彼女の双翅として堂々と隣に立ちたい。いっそのこと、自分が魂蝶頭(こんちょうのかみ)になり、魂蝶寮の闇を晴らすために共闘するのもいいだろう。官職を得たならば、何の引け目もなく彼女に恋文を送ることだってできる。だが、それはもう叶わない。


 死した罪人の蛹石は光りながらも鎚で打ち砕かれる。極刑に処せられた者は、二度殺められるのだ。一度目は肉体、二度目は魂。粉々になった蛹石は当然、羽化などしない。颯は跡形もなくこの世界から消えていく。


「終わりの日は……明日か、明後日か……」

「終わりなんてまだ先よ」


 妙に明瞭な声が鼓膜を打った。薄らと瞼を上げる。脱力して折れそうなほど曲がっていた首を緩慢な動作で戻すと、牢の隙間から闇に沈みかけた竜胆色(りんどういろ)がひらめいているのが見える。颯は目を疑い絶句した。


「あや、の?」

「ああ、よかった。何度呼んでも動かないから、もう手遅れかと……」


 気の強そうな瞳に涙の膜が張っている。綾埜は声を詰まらせた後、古びた牢の隙間に縋りついた。


「すぐ行かないといけないの。でも、まずはあなたのことが心配で」

「行くって、どこに。いいやそれよりも、どうしてここに」

「話は後。ここから無事に帰って、体調を治してからにしましょう」

「帰ってって……無理だろ。だって俺は」

「あなたを訴えたのは、魂蝶寮よ」


 颯は眉根を寄せる。魂蝶寮が組織として颯を告発したのならば、その意思決定をしたのは当然、魂蝶頭である父だ。


 颯の鬱屈した感情を見て取ったのか、軽く首を傾けた後、綾埜は妙なことを言った。


「だから、魂蝶寮が颯を訴える理由がなくなればいいの」

「は……?」

「そのためにこれから、お父様の蛹石を回収するわ。でも、あなたが生きていてくれないと何の意味もないから……ほら、これ」


 綾埜は袂から包みを取り出した。


「気休めにしかならないと思うけれど、これで暖を取って凌いで。すぐに戻ってきてあなたをここから救い出すから。だから」

「待て」


 颯は半ば這うようにして格子に近づいた。思ったよりも脚が萎え、無様な動作になった。倒れ込むように格子を掴む。湿った臭気の間から、綾埜の衣に焚きしめられた彼女らしい爽やかな香りが鼻を撫でた。


「何が何だかわからないが……柏正則の蛹石なら、ここにある」


 颯は胸を突き出して、顎で懐を示した。


「手が拘束されていて上手く動かないんだ。ここを探ってくれ」


 ほんの一瞬の躊躇いもなく、綾埜の手が懐に差し入れられた。すぐに探り当てた固体を引き抜いて、綾埜は瞠目する。蛹石の裏に刻まれた名を目でなぞり、半分口を開いては戻す。やがて、目眩でもやり過ごすようにぎゅっと瞼を閉じてから呟いた。


「お父様の蛹石……」

「そうだ。ここに連行される途中で没収されなくてよかった」


 綾埜は込み上げたものを喉の奥に押し戻すように唾を呑む。気づけば長い睫毛の先が濡れていて、離れた場所で夜通し燃える松明の光をちらちらと弾いて揺れた。


「あのまま逃げられたはずなのに、取りに戻ったのね」

「そんな顔すんなよ。本当なら俺が早いところ羽化させるべきだったんだが……蝶夢には入ったがすぐに引き戻されちまって」

「どちらにせよ、その怪我では無理よ」


 颯は口の端を持ち上げた。


「情けないだろ。失望したか」


 綾埜はかぶりを振る。


「こんなこと、しなくてよかったのに」

「父上はまだ羽化できる。必ずだ」

「でも! その代わりに颯が蛹石になってしまったら、私……」


 綾埜が身を乗り出す。吐息が触れ合う距離で、視線が重なった。二人の間に立ち塞がる堅牢な板がもどかしい。もう少し隙間が大きければ、彼女の頬を伝う涙を拭ってやることができるのに。明日の命すらわからない状況下だというのに、言い知れぬ愛おしさが込み上げて、颯は声を絞り出す。


「綾埜、俺は」

「誰かいるのか」


 強ばった声に弾かれて、綾埜が機敏に振り返る。颯も感傷を振り切って、鋭く囁いた。


「行け!」


 綾埜は後ろ髪を引かれたように颯を見て、一瞬だけ瞳を揺らす。しかしすぐに覚悟を決めて、砂を蹴って駆け去った。


「おい、そこにいるのは」

「うるせえな、独り言だよ」


 あえて粗暴な声を張り上げると、どこかほっとしたような間が空いてから、牢の周りを練り歩く足音が近づいた。格子の隙間から牢内を覗き、颯と目が合うと獄守は唾を吐く。


「この気狂いめが」


 売れもしない蛹石を盗むという、理解しがたい罪状を持つ囚人が一人で喚いていた他に、特に異常は見つからなかったのだろう。獄守は悪態を吐きながら離れて行く。


「……くそっ、汚ねえな」


 足音が闇に溶けた辺りで吐き捨てて、颯は不自由な手で、頬に付着した臭い唾を拭う。それから、詰めていた息を解き、綾埜の香りが移った防寒具を腕に抱いた。


「こんな場所にはもうくるなよ、俺の双翅」

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