4 あの男は③
「な……」
「私は私の意思で彼を逃がしたのです。もちろん、颯のやり方には非難もあるでしょうし、どんな事情があっても窃盗は犯令行為です。でも、彼に救われた魂がいくつもあるはずです。逆に、颯の行いのせいで誰が怪我をしましたか。誰の蛹石が希望の光を失ったというのです? このまま彼が極刑にでもなれば、納得できません」
「綾埜。落ち着きなさい。君は騙されているのだ。あの男は昔から、口が上手かった。純粋な君の心を弄ぶなんて造作ないことなのだろう。正気に戻れ」
「私は正気です!」
思わず立ち上がる、几帳越しにこちらを見上げる暁潤と睨み合う格好になる。
視線をぶつけ合い数秒間。暁潤の頬に浮かんだ驚愕が次第に憤りに染まっていくのが、まざまざと見て取れた。
「残念だよ、綾埜。少し頭を冷やすといい」
「頭はもう冷えて」
「誰か、ここへ」
暁潤が声を張るや否や、御簾を割って雑色と見える若者が踏み込んだ。
あっという間もなく、綾埜は両側から身体を拘束されてしまう。せめてもの反抗にと身をよじる。
「放して! 暁兄様!」
暁潤は暗い光を宿した瞳で綾埜を見つめ、動かない。そのことが無性に悔しくて悲しくて、綾埜はいっそう激しく暴れた。
「触らないで」
振り上げた腕が、意図せず雑色の鼻先を擦る。咄嗟に顔面を守ろうとしたのだろう、雑色が眼前に掲げた肘が、これもまた偶然綾埜の側頭を打った。あまりの衝撃に頭蓋骨の中がぐわんとかき乱されて、直立していられない。綾埜はその場に倒れ込む。
暁潤が上ずった声で綾埜を呼んでいる。綾埜の身体から自由を奪おうとしていた男らが、慌てて助け起こそうとしてくれるのだが、綾埜はこの場から逃げることを優先した。
助けの手を振り払い、雪のように冷たい板床を廂の方へと這う。
その時。混沌とした騒動の場に、ふわりと嗅ぎ慣れた匂いが漂った。
「もう止めて!」
衣に焚きしめられた香りに遅れて割り入ったのは、聞き慣れた女の声である。綾埜は息を呑み、おもむろに顔を上げる。月明かりにぼんやりと浮かび上がるのは。
「お姉様、どうしてここに」
「も、申し訳ございません。綾埜様がこちらにいらっしゃるとお耳にされて……早来埜様はずっと隣のお部屋に」
綾埜の疑問に答えたのは、姉早来埜の斜め後ろに控えた女房である。
どうやら姉はかなり前から隣室にいたらしい。柳眉を怒らせた様子を見る限り、綾埜と暁潤の会話に聞き耳を立てていたのだろう。ひっそりと話を聞いている予定だったものの、妹が力尽くで連行されそうになり、堪えきれずに飛び込んできたというところか。
「綾埜、冷静になって。あなたは騙されているのよ。悪いのは行颯様」
「違います。私は」
「綾埜」
低く抑えた声は、精一杯の自制の末らしい。堪えきれずに眼から溢れ出した煌めくものが、姉のまろやかな頬を伝った。
「あなたは何も悪くない。純粋な娘を誑かした人が、全部悪いの。綾埜は被害者なのよ」
「違うわ。お姉様、聞いて」
「口を慎みなさい!」
鋭い叱責に、綾埜の言葉は断ち切られる。一つ深呼吸をしてから、早来埜は激情を押し込めた声音で続けた。
「暁潤様のおっしゃる通り、今なら謹慎くらいで済むはずよ。お願い。姉様のためだと思って、認めて。あなたはたった一人の妹。お父様もお母様も、もういない。あなただけが血のつながった特別な家族。大切な、大切な存在なの。綾埜がいなければ私……」
涙ははらはらと零れ落ちる。冬の色を重ねた袖で目元を拭う早来埜。その華奢な立ち姿が、折れてしまいそうなほど儚く見えて、綾埜の胸に滾っていた自分勝手な情熱は、すっと冷えた。
綾埜は唇を噛み締めてから、緩慢な動作で腰を上げた。肘打ちを食らった側頭が脈打つように痛む。
「ごめんなさい、お姉様。どうか泣かないで。私も、お姉様がいなければ生きていられない」
震える身体をそっと抱きしめる。七つ年長の、慕わしい姉。幼少の頃から綾埜を慈しみ、守ってきてくれた。今だって、こうして綾埜のために声を荒らげ涙を流してくれる。守影家とは父のつながりで親交が深いとはいえ、このような夜更けに他人の邸宅にやってくるなど、慎ましやかな姫君にとっては一大事でもあるだろう。
早来埜の愛情を裏切ることはできない。しかしだからこそ、嘘は吐けないのだ。
「でも、ごめんなさい。私は颯を見捨てられない。彼が、蛹石のために正しいことをしていたと信じているから」
姉の肩がぴくりと動いた。
「お姉様、お願い。あの人は、私の双翅なの。子どもの頃からずっと、彼が私の心を支えてくれたのよ」
「姉様のことよりも、彼の方が大切だというの?」
「違う。お姉様がいなければ私は息ができない。でも颯を見捨ててしまえばきっと、生きていても苦しいだけなの」
早来埜がはっと息を呑む。朱唇が薄く開いてから躊躇いに凍りつく。やがて早来埜は、軽くかぶりを振ってから声を絞り出した。
「どうしても、なのね?」
綾埜は小さく顎を引くと、早来埜の腕が緩んだ。身体が離れ、近距離で視線が重なる。綾埜のそれよりも愛らしい印象の丸い目が、いっそう大きく見開かれている。やがて、紅を塗った唇から冷淡な言葉が落とされた。
「綾埜を閉じ込めて」
「お姉様!」
早来埜は綾埜から視線を切り、涙に濡れた瞳で暁潤を見る。
「暁潤様。綾埜を連れ帰らせてくださいませ。我が邸宅の隣、従者小屋の並びには、牢があります」
「ろ、牢」
「牢といっても、粗悪な環境ではありません。表向きにはただの小屋。事情あるやんごとなき家の子女を一時的に拘留するために利用している建物ですわ。私の夫は、獄を管理する囚獄正ですから、様々な采配が必要で……そういった場所は重宝するのです」
「しかし綾埜は騙されていただけで」
「先ほどのこの子の発言をお聞きになりまして? 自分の意思であの盗人を逃がしたのだと申したではありませんか。ご存じの通り綾埜は、こうと決めたら揺るがない性格です。普通の部屋に閉じ込めても抜け出してしまうかもしれません。私だって、可愛い妹を牢になど入れたくはありません。けれど、囚獄正の妻として、妹の罪に目をつぶることはできないのです」
早来埜は視線を綾埜に戻し、冷えた眼差しで告げた。
「どのような事情があったとしても、法を犯すことは許されないのだから」




