3 あの男は②
「いぼけい……?」
異母兄。四文字の言葉が脳裏で意味を形作るまでに、しばらくの時間が必要だった。混乱をきたす綾埜を追い立てるように、暁潤の言葉は続く。
「あいつと一緒に君の邸宅に行ったこともある。覚えていないかい?」
「え?」
「ほら、池のところで君とも話しただろう。たしか、君が羽化師の才能に目覚めたばかりの頃だったかな」
思わず、「ああ」と呻きともつかない声が漏れた。
親王を祖に持つ姫が人前に出て羽化師だなんて、と哀れまれ、信頼していた暁潤からも、羽化師になどならなくていいのだと言われたあの日。悔しさに拳を握る綾埜に、「誰も手を挙げる人がいなかったら、俺が君の双翅になろう」と言ってくれた少年の姿が脳裏に蘇る。
(ああ、あれは颯だったのね)
「行颯の母親は庶民の女。母方の曾祖父は一応官位を持っていたらしいが、祖父の代に没落して、母親は守影家で働くようになったのだ」
「あの真面目な友潤様が、雑色にお手を?」
「どういった経緯かはわからないし、我が父ながらあまりに浅はかで恥ずかしいくらいだ。本来なら、下女の産んだ子など、認知しないものだが……父上があいつを自分の子だと公表したのはね、行颯が羽化術に長けていたからだよ」
暁潤の話によれば、颯は羽化術の才が見つかるまで、梅殿に隣接する従者小屋で、母親と共に父なし子として育ったらしい。しかし、都を襲った大干ばつの折、元々身体が丈夫ではなかった母親は衰弱して呆気なく命を落としてしまう。
看取った颯は、まさか相手が実父であるなどとは知らず、主人であった守影友潤に供養の費用を出してもらおうと母の蛹石を拾い……そして、意図せず蝶夢に入ってしまったのだという。
羽化術は、独学で習得できるものではない。だからこそ、魂蝶寮に所属して数年間、正規の羽化師ではなく学生として研鑽を積むのである。
にもかかわらず、颯は簡単に、母親の蛹石を羽化させた。運がよかった面もあるのだろう。しかし、その事実が颯の人生を一変させることになる。
「父上は、あいつを外腹の子の一人として一族に迎えた。父上の最初の息子は自分だとばかり思っていた私にはけっこうな衝撃だったよ。急に、兄弟なのだから切磋琢磨しろだなんて言われてね」
「でも、どうして颯が守影を憎むというのですか」
「彼の母親が亡くなったのは、過酷な夏に休む間もなく働いたからだ。行颯からすれば、母親は守影友潤に見殺しにされたように思えるのだろう。それに、二年前のあの事件」
「颯が蛹石を盗んで魂蝶寮を除籍になった件ですね」
暁潤が頷く気配がした。
「あの程度のこと、魂蝶頭である父上が本気になればもみ消すことができたはず」
「でも、そうしなかった」
放棄された蛹石の秘密に触れることだったから、夏山行颯の行動理由が明らかになるのはきっと不都合だったのだ。追い出してしまいさえすれば、妙な噂が魂蝶寮に広がることもないと踏んだに違いない。
颯は、守影友潤に見捨てられたと言っていた。彼の心の中には、今もじっとりとした不満が沈殿しているのだろう。
「とにかく綾埜。これでわかっただろう? あいつを庇う必要なんてない。騙され、脅されたのだと弁明して欲しい。そうすればきっと、恩赦が出る。謹慎くらいにはなるかもしれないけれど、除籍には及ばないだろう。私もできる限り努力するから」
暁潤の声が、まるで分厚い壁を隔てているかのようにぼんやりと反響して聞こえる。綾埜は袖をぎゅっと握りしめた。
やはり綾埜は、颯に利用されていたのだろうか。そうかもしれない。彼の立場ならば、利用できるものは利用する。当然のことだ。
いずれにしても、綾埜のすべきことは何も変わらない。
幼い頃、おたまじゃくしが悠々と泳ぐ池のほとりで、まだ羽化師として足も生えない綾埜の覚悟を後押ししてくれたのは、颯の一言だった。
彼は、双翅になってくれると言った。それはただ、前途多難な夢を見る少女を哀れに思い、口を衝いて出ただけの気まぐれだったのかもしれない。颯自身はそんなこと、すっかり忘れているのかも。
しかし、無光堂で意図せぬ再会を果たした後、彼は綾埜と共に翅を広げてくれた。双翅となり、二人でいくつもの蛹石を羽化させてきたのだ。
蝶夢に舞う夜色の蝶。颯の魂の権化である蝶が纏うのは、澄んだ夜気のように冴える清浄な気配であった。魂蝶の色が魂の本質を表すのならば、颯は決して悪意の塊などではない。
「脅されてなんかいません。少なくとも、今は」




