2 あの男は①
「あの男は無事に捕らえられて、左京の獄所にいるそうだ。だからもう、怖がることはない」
守影友潤の邸宅である梅殿の一室に、暁潤の声が静かに響く。
「綾埜があそこにいたのは、脅されていたからだ。そうだろう? 告発してもあの男が君に手出しをすることはもうできないよ。安心して真実を話して欲しい」
夜の始まりに灯された火皿の灯芯が尽きようとしている。そろそろ日付が変わろうかという時刻のようだ。
煌々と冴える月明かりが御簾越しに差し込む中、正面に座る暁潤は直衣姿で険しい表情を浮かべている。
職場でもない私的な空間のこと。御簾の内側で男女が向き合うなど褒められたものではないが、罪人の逃亡に加担した綾埜の立場を思えば致し方ない。二人の間に几帳があるというだけでも、極力綾埜を尊重しようという暁潤の配慮が透けて見えるようだった。
「君は昔から、信念を持って羽化師の仕事に向き合ってきた。その純粋さにつけ込まれたのだ。綾埜は何も悪くない。罪を償うべきは、あの男だけだ」
「いいえ、違います」
綾埜はもう何度も繰り返した主張を吐き出す。
「確かに最初は彼のことを、蛹石を冒涜する非道な盗人だと思いました。でも違っていた。颯は、不当に光を奪われた蛹石を救おうとしていただけなのです」
「いったい何を言っている。寺社に集められた蛹石は、都の近辺であれば魂蝶寮に、地方であれば支社に集められて、羽化師の手に渡る。当然、羽化師の数が足りなければ、運悪く羽化の機会を逃してしまう蛹石もあるけれど、それは最善を尽くした結果であって、不当なものではないよ」
「違う。暁兄様は何もわかっていないのよ!」
綾埜は声を上げた。
「私も最初は、暁兄様と同じように考えていました。でも、実際は違うのです。光らなくなった蛹石の表面に少しひびを入れてみてください。芯に光が燻っているものが見つかるはずです。それは、羽化師がちゃんと蛹石と向き合っていさえすれば、気づけるはずのこと。それだけではありません。きちんと寺社に預けられた蛹石でも、供養料が少ないというだけで、羽化師に触れられることもなく川に捨てられてしまっているの。颯はそんな蛹石を救おうとしているだけです」
「綾埜」
暁潤は束の間言葉を失ってから、哀れむ声をした。
「君は騙されているのだよ。だって、前者はともかくとして後者……蛹石を捨てるなんて、そんな事実があるのなら、もっと早く問題になっているはずだから」
「きっと、ここ数年の出来事なのよ。二年前からの流行病で蛹石の数が増えて、手が回らないから」
「だとしても……」
「見たんです! 川に流された蛹石を引き揚げたら、まだ光っていたの」
「あいつが仕組んだことに違いない」
暁潤は吐き捨てるように言う。
「引き揚げたのは、流された蛹石と同じものだったのか? 妙なところはなかったかい?」
「それは」
綾埜が、夜に紛れて都の外れへと向かおうとする怪しげな荷車を見つけたのは、偶然のことだった。自邸に戻ろうとした時に、立ち往生する牛車が現れて、足止めを食らっていたところ、蝶紋のついた荷車を見かけたのだ。
単身それを追い、川に壺を流した男を問いただせば、内容物は羽化後の蛹石の殻だと答えた。彼に嘘を述べている様子はなかった。そしてまるで計ったかのように、颯がやってきたのだ。
水底に沈んだ壺は一見、男が流したものと同様に見えた。だが、そもそもが夜の闇の中で行われたことである。見間違いの可能性もあるだろう。一連の出来事は、颯が綾埜の信用を得るために仕組んだことではないと、言い切れるだろうか。
(颯は私を利用しようとしていたのだし)
綾埜のことを都合のいい小娘だと思っていたのだろうと詰問すれば、颯は言葉を濁すだけで否定しなかった。現に、綾埜が口を滑らせたことがきっかけで、今年の蝶門の場所が知れてしまい、颯は内裏に忍び込み蛹石を奪うことができたのだ。
几帳の裏で黙り込んだ綾埜にやや声音を和らげて、暁潤は言った。
「あの男は、守影家を憎んでいるのだ。だから、私たちが大切に思っている綾埜を騙して引き入れることで意趣返しを、とでも思っているのだろう。……巻き込んでしまってすまない。だけどもう大丈夫だよ。君のことは僕が」
「待ってください」
綾埜は思わず腰を浮かせた。
「暁兄様は、颯と知り合いなのですか?」
几帳の向こう側で衣擦れがした。一呼吸の間が空いて、静かな憤りの籠もった声がした。
「あいつは君に何も言わなかったのか?」
「何もって……」
「あの男は、夏山行颯。僕の異母兄だ」




