14 もう一つの蛹石
そよ、と鼻先を風に撫でられて、綾埜は瞼を上げた。
辺りは闇に包まれている。どこかで梟が控えめな声を響かせている。固い板床に押しつけられている右腕が痺れてしまい感覚が鈍い。
束の間状況の理解が追いつかず、何度か瞬きを繰り返す。やがて思考が明瞭になるにつれて、綾埜は全身から血の気が引くのを感じた。
夜だ。そしてここは右京の外れ、颯の仕事場の古びた屋敷。
綾埜は勢いよく上体を起こす。その拍子に、握りしめられていた颯の手に引き戻されるような体勢になる。不意の力に体勢を崩し、綾埜は元の通り右半身を下にして倒れた。
「痛っ……」
何せ、床が固いのだ。さらに、体温で温まっていたとはいえ、少しずれれば冷たい。まるで氷の上に身体を打ちつけたようで、息が詰まった。
辛うじて空気を吸い込み、薄らと涙を浮かべながら目を開いた綾埜の呼吸は、再び止まりかける。
半分夢の中に囚われたようにぼんやりとした颯の瞳が、すぐ側にある。呼気が睫毛の先を揺らすほど近い。
不意の距離感に動けず硬直する綾埜とは対照的に、颯は落ち着きを払っていた。
「綾埜」
囁く声は小さく、息の音が混じっている。綾埜の心臓が跳ねた。思わず、繋がった手を引き抜こうとするが、先ほどまでよりも強く握られていて離れない。
闇に溶けて黒に沈んだ狩衣の下から、もう片方の手が伸ばされる。ひんやりとしたそれは、何の躊躇いもなく真っ直ぐに綾埜の頬に触れた。
「はや」
「俺を」
いつもは強気な瞳が、今はどこか切なげな色を宿している。潤んだように揺れるのは、未だ眠りの淵に立っているからなのか、それとも夜の微かな光を捉えているためなのか。
「俺を、覚えているか?」
「……え?」
いったい何を問われているのだろう。覚えているも何も、ずっと一緒にいたのだ。どうやら颯は寝ぼけているようだ。体調不良で朦朧としているのかもしれない。
別の人物と勘違いしているのだろうかとも思う。しかし、彼は最初に綾埜の名を囁いた。不安げな瞳に別の女人の姿を映しているのならば、こうも明瞭に呼ぶことはないだろう。でも。
思考はどんどん混乱していく。
頬に触れる指先は慈しみに満ちている。大きな手のひらが、耳の方へと滑り、髪を撫でた。二人の間に広がる沈黙の澱を、綾埜の鼓動と衣擦れの音がかき乱している。
まるで、恋人に触れるような手だと思った。そのことに気づいた途端、熱く熱されていた何かが、急に水を浴びたかのように冷えて、胸の奥にずんと沈み込む心地がした。
当然、綾埜は颯の恋人ではない。恋の始まりを予感させる歌を交わしたこともない。それどころか颯にとっての綾埜はただ、都合よく利用できる羽化師に過ぎなかったのだ。
綾埜はぎゅっと唇を噛みしめて、髪の中にある颯の手を掴んだ。
その強さで我に返ったのか、颯がはっと息を呑む音がした。綾埜は乱暴に手を引き剥がし、軽く見張られた颯の目を睨みつける。
「残念だけれど、私はあなたのお望みの女ではないわ」
「……綾埜……?」
「ええ、そうよ。私は」
呆けたような顔で再度呼ばれ、なぜか怒りすら湧いてきて上体を起こした、その時だ。
部屋の隅、穴の空いた几帳を透かし、何かがぼんやりと光っているのが視界の端に映る。綾埜は口を閉ざし、そちらへと足を向けた。遅れて、颯が身体を起こした気配がする。
几帳の裏に回ると、無造作に丸められた布が、淡い紫の光を放っていた。綾埜はそれを両手で抱え、おもむろに開く。優しい光度ではあるものの、夜に慣れた目には滲みる。軽く瞬きをしてから見れば、それは蛹石だった。
「もう一件依頼を受けていたの?」
依頼主の蛹石を古布の中に放置とは。軽い非難を込めて呟けば、背後に立っていた颯の手がすっと伸び、蛹石を奪った。
「依頼じゃない。ただ、勢いで持って帰っちまったんだが、扱いに困って置いておいた。まさか光るとは……」
「勢いでって、もしかして浄蝶祭の日に盗んだの?」
いったいなぜ。目で問えば、颯は綾埜の視線を受け止めてから、蛹石を裏返した。そこには、蛹石の生前の名が記されている……。
「これって」
「柏正則。おまえの父君だろう」
颯の手の中にあるのは、胸が切なくなるような郷愁をもたらす淡光である。しかし、その温かさに反し、綾埜の全身はぞっと冷えた。
父の蛹石が、どうしてここにあるのだろう。
言葉が出ない。なぜ、どうして、と疑問ばかりが身体中を駆け巡る。
父が亡くなったのは、二年ほど前。さほど裕福ではない中流貴族の柏家だが、正則は優秀な羽化師であり禄はしっかりいただいていた。さらに、姉早来埜の婿は獄所を管轄する囚獄司の長官という人気のない職にあるものの、その兄は帝のお側に昇殿することが許された殿上人であったので、父の供養に際して資金も援助してくれた。
たとえ魂蝶寮が蛹石の対応に優先順位をつけていたとしても、供養料に不足などなかったはずだ。父の蛹石がここにあるはずはない。とうに羽化師の手によって蝶になり、次の生へと飛び立ったはずなのだから。
そして、不審なのはそれだけではない。
「どうして、私の父が柏正則だって知っているの?」
二年前まで魂蝶寮の学生だったならば、柏正則の名を耳にしたことがあっても不思議はない。言葉を交わしたことだってあるかもしれない。だが、綾埜は自分の家名を名乗っていない。綾埜と正則を関連づける要素は、何一つないはずだ。
颯は表情を変えずにじっと綾埜を見る。しばらく、脳内で言葉を組み立てるような間を空けた後、颯は薄く唇を開く。
「俺は」
その時だ。蛹石の光が緩慢に明滅し始めた。光が弱まり始める合図である。
なぜ、父の蛹石が二年も羽化せず、浄蝶祭の焚き上げ送りになったのかわからない。だが、推察を繰り広げる時間の余裕はない。父は今まさに、目の前で光っている。
綾埜は腹の奥に力を込めて、父の蛹石を鷲掴みにした。
「綾埜」
「颯はそこにいて。そんな体調でこられても危険なだけだから」
鋭い言葉を残し、近くにあった蒔絵の小箱に蛹石を押し込める。淡光の揺れに意識の波長を重ね合わせれば、綾埜の魂は肉体を離れ、父の夢の中へと飛び立った。




