15 蛹石:道徳に背きし羽化師 ……そして急転
世界が渦巻いている。蛹石になってから時が経ち、魂の記憶が薄れているのだろうか。普通の蝶夢よりも断片的で、色褪せている。
まるで絵巻物を時系列に沿って追うように、景色はぎこちなく遷移する。
見慣れた場所に父がいた。魂蝶寮の局、羽化師が仕事をする時に利用する一室だ。
二年前に死に別れた父正則の、やや背中を丸めるような立ち姿が懐かしい。綾埜の胸に、じんわりとした思慕が湧き出した。
正則は蛹石を手にしている。強風の日のように、全てが砂色がかった世界の中、ぼんやりと光る蛹石の薄紫だけが、鮮烈に綾埜の目に映る。
「……と、呼ばれて……るから」
「誰に? こんな……に」
「魂蝶頭が……」
双翅だろうか、正則は隣に立つ男と言葉を交わす。途切れ途切れの会話の中、「魂蝶頭」という役職のみが妙に明瞭に響いた。それから例のごとく、場面が切り替わる。
薄暗い。
ここは、光らなくなり無光堂へと送られる蛹石を一時的に安置する一室だ。
羽化への希望を失った哀れな乳白色が葛籠に山積みとなる中、父が袂に隠した蛹石だけが、波が寄せたり引いたりするような調子で輝いている。明滅の間隔はまだ広く、今から羽化を試みれば十分に間に合うはずだ。
しかし正則は、脈打つ光を放つ蛹石をじっと見つめた後、おもむろに手を伸ばし……そして蛹石の山の中に埋めた。
あまりのことに、言葉が出ない。
羽化の局にいたということは、たった今放棄された蛹石は、正則の管轄だったのだろう。それをなぜ、このような場所に隠してしまうのか。このまま放置されれば、この蛹石は光らなくなる。隠し場所の葛籠は近日中に無光堂へと運ばれるだろう。そうなれば非道な行いを知る者は、正則本人と彼にこの行為を命じた者たちだけだ。
「……どこへ……っていた?」
「担当変えだ。どうも先ほどの蛹……は……」
いつしか場面は局に戻り、正則と相棒の間に置かれた小箱には、先ほどとは異なる蛹石が収まっていた。
どくんどくんと、拍動が聴覚を占拠する。
目の前の出来事が信じられない。つまりこれは、生まれ変わりを願う蛹石の望みを強引に絶たせた場面なのだ。魂に貴賤はなく、羽化すれば誰もが等しく美しいのだと語ってくれた、あの父が。
「嘘……」
思わず掠れ声が漏れた。今の綾埜は深紅の蝶姿のはずだが、まるで人間の肉体を伴っているかのような感覚だ……と思った瞬間。色褪せた世界がぐわんと揺れた。
「綾埜、戻れ!」
鋭い声が響き渡り、眼前の空間に亀裂が走る。それは耳障りな音を立てながら蜘蛛の巣状に広がって、やがて鏡が割れるように、正則と双翅の姿が粉砕された。
綾埜は大きく喘ぐような息を吸う。肺に流れ込んだ空気は、凍るように冷たい。
「綾埜」
強ばった声に打たれ、綾埜の意識は覚醒する。目と鼻の先に、颯の険しい顔がある。
右京の夜だ。どうやら蝶夢から帰ってきたらしい。
彼は綾埜の魂が完全に戻ったことを確認すると、強く腕を引いて立ち上がらせた。突然のことに、つんのめる。綾埜は目元を鋭くして抗議した。
「何をするの」
「話している暇はない」
颯は顎先で庭を示す。馬蹄の音と言葉を交わす男たちの低い声、そして、松明だろうか、朱色の強烈な光が廃屋敷に近づいてきた。
古びて半開きとなった板葺き屋根の門を易々とくぐり抜け、招かれざる客人が荒れた庭になだれ込む。
「もしかして、検非違使?」
綾埜の上ずった呟きに「ああ」と唸りとも返答ともつかない声を返し、颯は綾埜の身体を几帳と日用品の山の陰に押しやった。
「何を」
「隠れていろ。奴らが探しているのは俺だ。隠れていれば、きっと見つからない。おまえは、ほとぼりが冷めてから家に戻れ。こんな場面を見られたら大変だろ」
「そんなこと」
「盗人と深夜に密会だぞ。婿が見つからなくなるだけじゃなく、魂蝶寮も除籍だろう。家族にも累が及ぶかもしれない」
「それは……」
言葉が続かない綾埜を強引にしゃがみ込ませ、安心させるように口の端を持ち上げて見せてから、颯は堂々とした足取りで簀子に出る。
「探してんのは俺か?」
「うわっ!」
小さな叫びと同時に、矢が一本飛来して塗籠の壁に刺さった。すぐ側を鋭い風が切り裂いた驚きに、綾埜は両手を口元に押しつけ、危うく飛び出しかけた悲鳴を呑み込んだ。
その拍子に、正則の蛹石が簀子の方へと転がった。手を伸ばしてももう届かない。
さらに不運なことに、古びた簀子には穴が空いていたらしい。ころころと転がった蛹石は呆気なく床下に落ちてしまう。
一連の物音は、喧騒の合間を縫った微かなものだったが、近くにいた颯には届いたようだ。僅かに首を動かして、穴を一瞥する。その一瞬の動作を取り繕うように、颯は飄々と肩をすくめた。
「おいおい、相手が誰か確認もせずに、いきなりそりゃないだろ」
先ほどの矢は、意図せず放たれたものらしい。手元を狂わせ塗籠に攻撃をお見舞いした検非違使が、悔しげに唸った。
「立派なお役人さんがそろってお迎えとは、俺も有名になったな」
「おまえ……おい、その手に持っているのは」
挑発に乗りかけた検非違使の一人が、はっと息を呑む。驚愕は伝染し、やがて正義の熱へと変わり、検非違使たちを奮い立たせた。
「ああ、蛹石さ」
颯の手には、どこから取りだしたのか、光を失いつるりとした乳白色の蛹石がある。
「どこで手に入れた」
「これか? 拾ったんだよ。川原でさ」
「見え透いた嘘を吐くな」
「頭ごなしの否定はよくない。あんたらも左京の川底をさらってみるといい。蛹石がわんさか出てくるぞ」
「川に還されるのは、羽化後の殻であり、中身の入った蛹石ではない」
「まあ、そういうことになっているんだろうけどさ」
颯はわざとらしく嘆息し、自ら庭に下りて行く。綾埜が隠れている塗籠が、検非違使らの視線から外れるように移動したのだろう。綾埜からも、颯の姿は死角に入り見えなくなる。
「で、俺を捕まえるのか? 罪状は何だ。魂蝶寮に見捨てられた哀れな蛹石を救った罪か?」
「白をきるな。義賊にでもなったつもりか? おまえには、浄化を待っていた蛹石を内裏から盗み、魂を永劫にこの世に縛りつけようとしたという嫌疑がかかっている」
「嫌疑、ねえ」
颯は鼻を鳴らした。
「疑っているってよりも、真実はどうあれ俺を罪人にしたがっているように見えるけど」
「黙れ。横柄な口は身を滅ぼすぞ。極刑となった者の末路は、耳にしたことがあるだろう」
「身体は刑場で引き裂かれ、蛹石は光りながら打ち砕かれる、だろ。そんなもん、か弱い庶民なら皆知っているさ。いつどんな濡れ衣で悲惨な目に遭うかわからないからな」
「ならば話は早い……あの男を捕らえろ」
検非違使たちが、足裏で砂を蹴り素早く動く。武具が擦れる音に、口を覆ったままの綾埜の手が震えた。
(身体は刑場で引き裂かれ、蛹石は……)
罪を犯せばどうなるか、綾埜も当然知っている。
窃盗はいわずもがな罪である。だが、やり方はどうあれ、颯はこれまで盗んだ蛹石たちを救ってきたではないか。
(この寒い日に獄所に入れられてしまえば、裁かれる前に命を落とすかも。ただでさえ、蝶夢に囚われかけて体調を崩していたのに)
頭の中で、ぐるぐると言葉が渦巻いている。捕まれば、颯は終わりだ。特に後ろ盾もない盗人など、ろくに弁明も聞いてもらえないだろう。
だがその点、綾埜がここで発見されたとしても、言い逃れのしようはある。いいや、何も語らずとも、黙秘を貫き時間を稼ぐことも可能なはずだ。
綾埜は人知れず拳を握り、腹の奥に力を込めて覚悟を決めると、塗籠から飛び出した。
「待って!」
突如として割り入った女の声に、検非違使の動きが止まる。綾埜は颯に叫んだ。
「逃げて。やり方は褒められたものではないかもしれない。でも、あなたは羽化師として、助けを求める蛹石と真っ直ぐに向き合ってきただけなのよ!」
一瞬の隙を衝き、颯は検非違使の拘束を抜け出して、小柴垣の方へと走った。束の間、躊躇うように視線が揺れたが、結局最も合理的な判断に至ったのだろう。
綾埜が颯を逃がそうとしたことは、誰の目にも明らかだ。つまり、「何も知らなかった」や「脅されて囚われていた」などという言い訳はもうできない。ならば、協力して切り抜けるしかないのだ。二人とも捕らえられてしまえばもう、そこで終わりである。
颯は振り返らずに垣を越える。
「お、おい、逃がすな!」
検非違使がばらばらと散り、颯を追う。綾埜の周りには、困惑した様子の数人が集まってきた。
「君は、羽化師か?」
狩衣の上衣は脱いだままだが、赤紫がかった色の狩袴は羽化師の装束だ。身分は明らかである。だが、そうでなくとも綾埜の立場は早々に知れたはずだ。検非違使らの背後から、竜胆色の狩衣姿が陽炎のようにゆらりと動いた。
「……綾埜」
聞き慣れた声に、綾埜は顔を上げる。掲げた松明の炎に揺られる顔を見上げ、綾埜は声を絞り出した。
「暁兄様。どうしてここに」
「嘘だと思いたかった。でも、見間違いではないのだね」
普段は柔和な暁潤の顔が、険しく引きつっている。彼は冷たい憎しみを宿した瞳で小柴垣を睨んでから、綾埜には目を向けずに短く命じた。
「彼女を我が邸宅へ。一度預かる」
「暁兄様、待って。これには理由があるの」
声も虚しく、暁潤は踵を返して門を出る。検非違使に囲まれながら張り上げた声は、白い息と共に、冷えた夜の空気に溶けて消える。
暁潤は一度も振り返らなかった。一瞬だけ覗いた横顔は、少し触れれば泣き出してしまいそうな悲しみを帯びているようにも見えた。
二章 終




