13 罪と偽善と信念の狭間にて③
ぱちり、と扇を閉じる音がした。
綾埜がかけた竜胆色の狩衣の下で、颯は無意識に扇をいじっていたらしい。気が済んだのか腕が脇に落ちると、半開きになった蝙蝠扇の白が布地の端から覗いた。
主に夏に使うはずの蝙蝠扇。冬に取り出しているのは風情がないが、もしかするとこれしか持っていないのかもしれない……などと失礼なことを考えて、ふと気づく。地紙に和歌が書き記されているようだ。
颯が細く目を開く。沈黙する綾埜の視線に気づいたのか、彼は扇を狩衣の下に引っ込めた。
「誰かからもらったの?」
「ああ、ちょっとな」
何も言わないのも不自然かと思い訊ねれば、素っ気ない答えが返り、綾埜の胸がざわりと揺れた。
(恋人かしら)
颯は、先日もこの扇を持っていた。肌身離さず持ち歩くからには、大切な品なのだろう。
いつ居場所が知れて検非違使に引っ立てられるかわからない立場にある颯。住処も仕事場も、今日放棄することになってもおかしくない。だから、失いたくない品は常に携帯しているのだろう。
歌を詠み交わすのは、何も男女ばかりではない。先ほど話に出てきた友人の形見という可能性もあるが……。
ざわざわと心が騒ぐ。今まで抱いたことのない焦燥にも似た苛立ちが、喉の奥を塞いでしまい息苦しい。
(私、いったいどうして)
混乱の中、細く息を吸った時。颯がぶるりと身震いした。眉間に深く皺が刻まれている。綾埜は古布で彼の額を拭ってから、手を取った。
「大丈夫?」
「ああ」
「手が冷たいわ」
「じゃあ温めていてくれ」
「え、ちょっと」
颯の手の甲に添えていた綾埜の手は、くるりと反転した颯のそれにがっしりと握りしめられた。反射的に腕を引っ込めようとしたが、案外強い力で掴まれていて、抜け出せない。
動揺する綾埜をよそに、颯は目を閉じて眠りの体勢に入ってしまった。
「ね、ねえ。そろそろ帰らないと」
すでに日が傾きかけている。遅くなれば皆が心配するだろう。そう思うのに、体温を分け合うことで少しずつ温まり始めた颯の手を放せない。
「颯……」
強引に指を引き抜こうかと思った時、竜胆色の狩衣の下にある颯の身体が、規則正しい深い呼吸に上下を始めた。表情は穏やかで、苦しげな様子はない。
どうやら、狸寝入りではなく本当に眠ってしまったようだ。
せっかく健やかな寝息を立てているのに、綾埜が動けば目覚めてしまうかもしれない。何よりも、狩衣を回収しなければ、さすがに町は歩けない。上着なしで帰れば姉は卒倒するだろう。
(もう少しだけ。颯の身体が温まるまではここにいよう)
調子が狂う。先ほどまでは怒りを覚えていたはずなのに、異様に低い体温を感じてしまえば、心配が勝ってしまう。
手のひらを握り返し、颯の横顔をぼんやりと眺める。しばらくして、かたり、と蒔絵の小箱が揺れた。蛹石が羽化したのかもしれない。
綾埜は自由な方の手で小箱を引き寄せて、留め具に指をかける。軽やかな音と同時に蓋が開くや否や、深紫色の蝶が飛び出した。
夕暮れ時の赤みを帯びた日差しが細く差し込む塗籠の中を、宝玉を削ったかのような鱗粉を撒きながら、蝶が舞う。
蝶は、綾埜の顔の周りを旋回してから、颯の胸に舞い降りてしばらく翅を休めた。そして、何事もなかったように夕日の中へと羽ばたいた。
「……次の生でまた、大切な人に再会できますように」
偽善かもしれない。だが、言わずにはいられなかった。
彼の蛹石は、正規の羽化師から見捨てられた存在だった。しかし颯の手を経ることで、無事に羽化して新たな世界に飛び立った。
――あいつの蛹石が放置されて、どんどん光を失っていくのを見るのが耐えられなかった。だから、盗んだ。
先ほどの颯の言葉が脳裏に蘇る。
彼が盗みすら厭わずに羽化の依頼を引き受ける理由はきっと、過去の経験によるものなのだろう。そんな話を聞いてしまったら、憎むに憎めないではないか。
魂蝶寮で働くことは綾埜にとって、幼少の頃からの夢だった。羽化師である父を尊敬していた。羽化師の過労死を激減させた、優秀な長官であり羽化師でもある魂蝶頭を信頼している。それなのに、握りしめた手の温もりも手放せない。
(私は何を信じればいいのだろう)
目まぐるしく展開する思考に、じんじんと脈打つように頭が痛む。綾埜は小さくため息を吐き、その場に横たわる。
目を閉じれば、赤い陽光が透けて見える。その光が翳るにつれて、綾埜の意識は深い微睡みの底へと沈んでいった。




