12 罪と偽善と信念の狭間にて②
先ほどまで感じていた失望も悲しみも、何もかもを脇に置く。今は、目の前で危機に陥っている人間を救うことだけを考えるべきだ。
幸いなことに、颯の魂はすでに蝶夢から解放されているのだから、あとは心身の回復に努めるだけだ。
「元々風邪を引いていたんだ」
「体調が万全ではない時に蝶夢に入るなんて捨て身過ぎるわ。……何か汗を拭くものはある?」
手の動きで、壁際を示される。荷物の山から盥と古布を引っ張り出すと外で水を汲み、素早く颯の隣に戻る。
「ひと昔前は多かったらしいな。過労で蝶夢から帰れなくなる羽化師」
「今の魂蝶頭は、羽化師たちの業務量を調整してくれているから」
颯は何か言いたげに鼻を鳴らしたきり黙り込む。互いの呼気だけが、半開きの塗籠に響いている。喘鳴が混じるわけでもない、穏やかな呼吸だ。綾埜は水に浸した古布を絞りながら控えめに言った。
「やっぱり、何かあったのではないの?」
颯は横たわり目を閉じ、声を発しない。その額や首筋の汗を拭いながら、綾埜は追い打ちをかける。
「風邪気味だったなんて嘘よ。身体は冬の川みたいに冷たいし、咳もないみたいだし」
反応はない。眠ってしまったのか、それとも狸寝入りなのか、と疑い始めた時。颯は瞼を開かずにぽつりと語り出した。
「……俺にも、共に夢を追おうと約束した友がいた」
綾埜は手を止めて、膝元にある颯の顔をじっと見つめた。
「魂たちを救うために、魂蝶寮で身を粉にして働こうと約束したんだ。あいつは、俺とは違って風流で、笛なんかも吹く上品な奴だった。性格は全然違うのに、抱えた理想だけはぴったり同じでさ、気づけばよく酒を飲む仲になっていた。学生から正規の羽化師になれていたら、双翅になっていたかもしれない。だけど、今思えばどうでもいいようなことで口論になっちまってな。和解する機会もないまま、あいつは死んだ。二年前のことだ」
綾埜は納得した。蛹石の見る夢と己の実体験に親和性があり過ぎる場合、魂同士が強く引き合い囚われてしまうことがあるのだ。
「流行病だったの?」
二年前といえば、咳逆が大流行した年。綾埜の父も、体調を崩して出仕から帰った三日後に、呆気なく蛹石になってしまった。
「ああ。どうも、体調が万全ではなかったのに蝶夢に入ったみたいで、戻れなくなりかけたんだ。俺だけじゃなく、同僚たちも含めて何人もで助けに行って、何とか魂を連れ戻すことができた。だが……手遅れだった」
颯はそこで言葉を切る。閉じた瞼の裏に、いったいどのような景色を見ているのだろうか。
「魂は身体に戻ってきていたから、死んですぐ、蛹石が現れた。でもな、光が弱かったんだ。熟練の羽化師が急いで羽化させないと、すぐに消えてしまいそうだった。当時の俺は魂蝶寮を疑うこともない、何も知らない羽化師だったから、慣例通り、あいつの家族が蛹石を供養して寺社に納めるのを待った。できることなら俺が担当したかったけど、知っての通り、知人の蝶夢に入って冷静さを保てる奴はほとんどいないからな。当然あいつの蛹石は俺の知らない場所で羽化する予定だった」
「予定、だった」
「あいつの蛹石は、後回しにされたんだ」
綾埜はぐっと眉根を寄せる。
「それはつまり」
「寺社に納めた供養料が少なかったんだろ。流行病で死者が多い時期だったから、魂蝶寮もてんやわんやでさ。しかもあの年は、公卿たちの間でも咳逆が広まって、結構大変だったし」
当時、帝の殿舎に上がることを許された殿上人の間にも病が蔓延し、多くの高官が命を落とした。そのような時期だったので、一介の羽化師の蛹石が後回しにされてしまったというのも想像に難くない。
建前上、羽化は蛹石が納められた順に行われることになっている。しかし綾埜は、颯と出会って知ったのだ。魂蝶寮は……いいや、この社会は、綺麗なことだけでは回っていない。
「俺が追放されたのは、友が不当に軽んじられたことが許せなかったからだ。あいつの蛹石が放置されて、どんどん光を失っていくのを見るのが耐えられなかった。だから、盗んだ。俺が羽化させてやろうとしたんだ」
「一人で?」
「ああ。誰にも協力なんて頼めないだろ」
担当する蛹石は魂蝶寮によって定められているのだ。それに反することは、魂蝶寮の羽化師としてあるまじきこと。現に、颯は魂蝶寮から資格を剥奪されている。除籍の真相は、こういうことだったのか。
「守影友潤は」
普段は呼ぶ者の少ない魂蝶頭の名を耳にして、綾埜は瞬きをする。
「確かに羽化師を守っている。あいつが魂蝶寮を統括するようになってから、羽化師の過労死は減った。だがその分、貧しい人たちの蛹石がたくさん見捨てられるようにもなった。本当なら、大臣だろうがその従者だろうが、先に寺社に納められた蛹石から羽化させるべきだ。なのに、実際はそうもいかない。羽化師の数が限られているから、どうしてもいくつかは放棄されることになる。この前、川に流されていたように」
綾埜の脳裏に、月明かりに煌めく川面の銀が浮かぶ。
「守影友潤は、その闇に目をつぶっている。そして、歪みを受け入れられなかった俺を除籍した。あいつは」
颯は顔を上げ、感情のこもらない淡泊な声音で言った。
「俺を見捨てた」




