11 罪と偽善と信念の狭間にて①
「……ああいうのは偽善だ」
精神が疲弊して、全身が重たい。指の先すら動かしたくないほどの気怠さに沈んだ綾埜の耳を、颯の掠れた声が容赦なく打つ。
「わかっているわ」
綾埜はむっとしつつも肘を突き、上体を起こした。
荒れた部屋の中、一足先に肉体に戻ったらしい颯が額の汗を拭いながら、不機嫌そうな顔をしている。
「どうせあの弟は、兄が作り出した幻影だ。和解も、最後の言葉も、全部都合のいい妄想なんだ」
「それでも思いを告げ合うのが正しい。私はそう思うから自分の信念に従ったの。何でもかんでも斬ればいいってものではないわ。現にあなた、苦戦していたのでしょう? 私が助けに入らなかったら、戻れなくなっていたかも」
「苦戦なんかしていない」
「この状況で、誰がそんなことを信じるのよ」
荒れた室内を視線で示す綾埜に渋い顔を返してから、颯は黙り込む。普段はどちらかといえば飄々としている颯のいつになく強情な態度に、綾埜は軽く首を傾けた。
「どうしたの。結局羽化できたのだから、失敗するよりもずっとよかったじゃない」
むしろ、目的達成のためならば、蝶夢の中で刃物を振り回すという邪道な羽化術も厭わない颯の方が、そう言いそうなものだが。
綾埜の顔に浮かんだ疑問に気づいたのか、颯は大きく息を吸い込んでから、肩の力を抜いて口の端を持ち上げる。
「ああ、そうだな。おまえの言う通りだ。今回は助けられたよ。そんな顔しないでくれ。まるで栗鼠みたいだ」
冗談交じりに頬へと伸ばされた手を思わず払う。
「馴れ馴れしくしないで」
颯は目を丸くして、瞬きをした。
「悪い、そんなに嫌だったか」
「浄蝶祭に押し入った蛹石泥棒はあなたね?」
「何のことだ」
綾埜の突然の怒りに呆気にとられたような颯だが、声の調子は妙に落ち着きを払っている。その様子を見て、綾埜は彼の犯行を確信した。
「やっぱりそうなの。私を騙したのね」
「……騙す?」
「今年の蝶門の場所を聞き出したでしょう」
颯は薄い笑みを浮かべたまま、思考を巡らせる間を取り繕うように、転がっていた土器や提子を拾って几帳の側に並べた。それから、あっけらかんとした抑揚で返す。
「別に、あれはたまたまだよ。だってあの時はまだ、浄蝶祭で焚かれる蛹石を羽化させる依頼なんて受けていなかったから」
「じゃあ認めるのね」
綾埜は拳を握りしめる。
「西徳門に忍び込んで蛹石を盗んだのはあなただって」
「認めるも何も、会っただろ」
諦めたのか、そもそも隠すつもりはなかったのか、颯はため息をついてから、気怠げに脇息にもたれた。
「おまえさ、正義感が強いのはいいとして、不審者に簪一本で立ち向かうなんて無謀だぞ。相手が俺だったからよかったが」
「そんなこと、今はどうでもいい」
腹の奥底から、怒りが沸き上がってきた。颯は何もわかっていない。綾埜が今日、どんな思いで彼を訪ねてきたのかを。
「最初から、このためだったのね。光らない蛹石でも羽化できると教えてくれたのも、私のことを双翅だと言ってくれたのも」
「おい、綾埜?」
「あわよくば、魂蝶寮の動向を聞き出すために利用できるかも。都合のいい小娘だ。そんな風に私のことを見ていたのでしょう?」
「それは……」
颯は言葉を濁し、目の前で怒りに震える綾埜をじっと見つめる。やがて、居たたまれなくなったように視線を逸らし、壁際に弾き飛ばされていた白い蝙蝠扇を拾い上げた。
「すまない」
たった四文字の言葉が、綾埜の胸を切り裂いた。
彼は認めたのだ。綾埜を利用していた。最初から、そのつもりだったのだと。
(馬鹿みたい)
じわりと涙が浮かぶのを感じた。なぜこうも息苦しいのか、わからない。
確かに、見捨てられた蛹石に真摯に向き合う颯の姿勢は好ましく、同じ価値観を共有しているのだという親近感すら抱きかけていた。だが別に颯とは、深い仲ではない。時々一緒に蝶夢に入り、魂を救ってきただけの知り合いだ。それなのに。
大切にしたいと願っていた淡い光が、一瞬にして手のひらをすり抜けて消えてしまったかのような寂寞を覚えるのは、いったいどうしてだろう。
「だが」
ふと顔を上げ、颯は言った。手元で開いたり閉じたりしていた扇がぱちんと閉じる。
「俺はおまえを双翅だと思っている。本心だ。今日だって助けられた。綾埜がいなければ俺は」
「もういいわ」
これ以上、気休めなど聞いていられない。綾埜は勢いよく腰を上げ、大股で簀子へと向かう。
「おい、待て……、っ!」
綾埜の足音よりも大きな音が、背後で響いた。反射的に振り向いて、綾埜は小さく悲鳴を上げる。颯がその場に倒れ込んでいたのだ。
思わず駆け戻り膝を突いて助け起こす。触れた筒袖が汗で湿り、凍りつきそうなほど冷えていた。
「体調が悪いのね?」
「いいや、大丈夫だ」
「大丈夫なわけないでしょう?」
颯の手が震えている。心なしか、顔色も悪いようだ。
「とりあえず横になりましょう」
綾埜は辺りを見回して、先ほど蝶夢に入る前に颯にかけていた筵を板床に敷いた。力が上手く入らないのか、重たく沈み込もうとする身体を介助し横たえて、綾埜は狩衣を脱いで、冷えた身体にかけた。
突然脱衣を始めた綾埜にぎょっとした様子で目を逸らす颯だが、別に裸になったわけでもないのに大袈裟だ。不都合といえば、下に着ている小袖一枚だと寒すぎるくらいである。
「おまえ、貴族の姫さんだろ……」
「命の方が大事よ。困るのなら、早く回復して。それに私、まだ怒っているのよ」
綾埜はきっぱりと言って、竜胆色の狩衣で颯の身体を包み込む。その間も、彼の身体は芯から小刻みな痙攣を繰り返している。この症状は、教本で読んで知っている。さすがに、実際に目にするのは初めてだが。
「魂が、蛹石に取り込まれそうになったのね」
塗籠の床に、蝶の蒔絵が描かれた小箱が置かれているのを、目を細めて眺める。先ほどの兄は箱の中でもう殻を脱ぎ捨て蝶になっただろうか。
「やっぱり何か事情があるのね? だって、様子が変だったもの」




