10 蛹石:妬みし兄②
死者を弔う香が立ち込めている。邸宅中が悲しみに沈み、いたる所からすすり泣きと潜めた嘆きの声が聞こえてくる。そしてその中に、確かな恨みの念が織り込まれているのを感じた。
「兄君に呪詛されたのでは」
「感謝の欠片もない、あまりにも理不尽な振る舞いだったものね」
「献身的に世話をしていたのに、無念だったことでしょう」
――違う、呪詛などしてはいない。だが、本当に?
人の念は高じると、生き霊となり肉体を抜け出して特定の者を呪うという。出仕していた頃は、魂の専門家である魂蝶寮の羽化師が誰それの生き霊に対処した、という噂話はよく耳に届いたものだ。
もちろん、弟に生き霊が憑いていたという話は聞いたことはない。呪詛への対応のため、邸宅に羽化師がやってきた気配もなかった。だが全ては、兄への配慮から弟が口止めをした結果だったとすれば辻褄が合う。
そう、宮廷で密かに政敵を追い落とした弟の行動が、兄の元まで伝わってこなかったのと同じように……。
――弟は私を憎み恨んでいるだろうな。
「当然だ」
聞き慣れた柔らかな弟の声。しかし、その奥底には、行き場のない憎悪がとぐろを巻いている。
「私は兄上を憎んでいる。あれだけ尽くしてきたのに、全ては無駄だった。所詮、私の独りよがりだったのですね。出世を後押しし、盲目になれば世話をして、横暴にも堪えた。にもかかわらず、兄上からの憎しみに身を蝕まれた。そして死した今、私の魂は兄上への憤りに囚われて、羽化すらできない。何と虚しいことでしょう」
灰色の世界に、ぼんやりと光が灯る。やがて、薄紫色の燐光を放つ弟が、若かりし頃の姿で佇んでいるのが見えた。蝶夢の中、兄は視力を取り戻していた。
「兄上、私は憎い。あなたが憎い。憎い、憎い、憎い」
不意に、弟の口が大きく裂けた。鋭利な牙が覗くそれは、まるで獰猛な獣……いいや、物の怪のようだった。
弟が飛びかかってくる。虚ろな穴となった弟の双眸に生気はない。兄は噛みつかれ、叩かれ、殴られ、骨がずれる無残な音が響いた。
「うああああ……」
呻きとも悲鳴ともつかない声が、喉の奥に絡まっている。
ぴしり、と世界に大きな亀裂が走る。その衝撃で、兄に憑依している綾埜は状況を思い出し、彼の魂から離脱した。
(どうにかしなくちゃ。私は羽化師よ。でも、このままだと、蛹石が堪えられない……)
「綾埜、どけ!」
鋭い声と共に、竜胆色がふわりと舞った。同時に、剣呑な鈍色の刃が煌めく。
風圧に煽られた綾埜の深紅の蝶は、やや高い位置からそれを見下ろす格好になる。
「颯!」
人型を取り、どうしたことか羽化師の狩衣を纏った颯が、いつもの太刀を片手に兄弟の間に割り込んだ。振るわれた刃に驚いたのか、物の怪と化した弟が飛び退り、異様に隆起した肩を上下に揺らして大きな呼吸を繰り返す。
「邪魔を、するな……」
「おまえこそ、羽化の邪魔だ。失せろ」
颯は兄を助け起こし、太刀を握らせる。
「な、何を」
「斬れ」
「へ?」
「つべこべ言わずあれを断ち斬るんだ」
目の前の物の怪は、兄の蝶夢に顕現した存在である。いわば、兄が弟に対して抱いていた嫉妬と後悔が生み出した、ただの幻なのだ。羽化を妨げる妄念ならば、本人の意思で斬り裂いてしまわねばならない。
兄は、躊躇いがちに太刀を握る。蘇った視力で太刀の刃文をじっと見つめてから、おもむろに顔を上げた。視線の先には、物の怪と化した弟の姿。
颯に再度促された兄は、ぎゅっと唇を噛みしめて刀を掲げる。少しよろめきつつ足を前に進める。
まるで獣が威嚇をするように牙を剥き出した弟の姿に、振り上げた太刀が震えている。兄の瞬きに合わせるように弟の輪郭がぶれ、人の姿と物の怪の姿が重なって見える。
「騙されるな。おまえ自身の心の弱さと向き合うんだ」
額に汗を浮かべ、切羽詰まりつつあるような颯の叱責に、太刀が持ち上がる。ふと、その刀身に映る老人の顔が目に入り、綾埜は息を呑んだ。
泣いている。憎悪ではなく、ただ純粋な悲嘆に暮れた顔である。しかし、颯の隣で太刀を掲げる老人の顔面には、醜い感情が張りついている。
刀身が映しているものは、もしや。
「さあ、太刀を……」
「斬ってはだめ!」
綾埜は声を上げた。強烈な自我を解き放った瞬間、深紅の蝶は人の姿に転じた。綾埜は老人に体当たりをするようにして太刀を強引に奪った。声を荒らげたのは、颯だ。
「何やってんだ。邪魔するな!」
「邪魔なんかするわけないでしょう。斬ってはだめなのよ。そんなことをすれば、彼の魂は壊れてしまう。……見て」
綾埜は、刀身を鏡のようにして兄弟の間に翳した。そこに映る兄弟の表情を目にし、言わんとすることを察したらしい颯が口を閉ざす。
「羽化できないのは魂が何かに囚われてしまっているから。だからそれを斬り伏せるというのは一見理に適っているわ。でも、彼を縛っているのは憎しみだけじゃない。きっと後悔しているの。……そうなのよね?」
小娘に、わかったような口を利かれ、かつて帝に仕える身分であった男は顔をしかめる。しかし、綾埜は怯まない。
「思いを告げ合って、誤解を解いて。たった一人の弟だったのでしょう? 複雑な事情はあったのでしょうけれど、永遠に喧嘩別れをしていい関係ではないわ。本当は、ちゃんと話したかった。そうでしょう?」
「私は……」
がらん、と太刀が地面に転がった。太刀を取り落とした兄は、空になった両手で頭を抱えて呻く。
「私はただ、無念で……役立たずの上に無駄な自尊心ばかりを優先してしまう己が、どうしようもなく恥ずかしくて……」
「素直になれずに命を落としてしまった。それが、心残りだったのね」
「私が死ぬ間際にはもう、弟はこの世にいなかった。だから、この懺悔は永遠に果たされることがない」
彼の言う通りだ。灰色の世界に佇む弟は、兄の魂が作り上げた幻の姿。生前の弟は兄を憎んでいたのか、それとも全て理解して受け入れていたのか、今となっては誰にもわからない。にもかかわらず和解を促すなど、ただの気休めでしかないのかもしれない。それでも、この蝶夢を生み出した主は、それを望んでいる。綾埜は確信していた。
「大丈夫よ」
綾埜は、半ば蹲り心の闇に悶え苦しむ男の肩を撫でて促した。
「彼はあそこにいるじゃない。さあ、顔を上げて」
幼子のように素直に、兄が顔を上げる。先ほどまで裂けていた弟の口は人間のそれに戻り、少し気弱で戸惑うような笑みを浮かべている。
躊躇いがちながらも二人が歩み寄るのを見届けて、綾埜はそっと距離を置く。
二言三言の言葉を交わし、兄がはっと目を見開いた。その頬を、煌めく雫が流れるまで、ほとんど時間はかからなかった。
「……今日まで、すまなかった。ありがとう」
「何を他人行儀におっしゃいますか。唯一の兄弟でしょう」
「ああ、そう、だ。そうだな」
かつて憎しみをぶつけ合った二人は夢の中で、和解を果たす。灰色の世界に彩りが戻ってきた。
子は通常、母親の邸宅で養育される。そのため、母を異にする兄弟が深い情で結ばれることはさほどない。だが、彼らの間には、強固な絆が生まれていた。死してなお、後悔に魂が縛られてしまうほどに。
「私たちは、唯一の兄弟だ。今世では、年長者とも思えぬ無様な兄であったが許せ。次の世ではきっと、頼りになる兄でありたい」
「ならば早くその殻を破って、こちらに飛んできてください。次の世で、兄上を待っています。もっとも」
淡く優しい光が辺りに満ちている。白む世界に溶け込みかけながら、弟はいたずらっぽく笑った。
「だいぶ待ちましたからね、今度は私の方が兄ですけれど」




