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魂の羽化師は夢を斬る 平安鎮蝶譚  作者: 平本りこ
二章

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9 蛹石:妬みし兄①

「共に、主上と国のために働こう」


 位階の低い貴族の装束である縹色(はなだいろ)の束帯を纏った若者が、固く手を握り合っている。


 恰幅がいい方の若者は自信に満ちていて、少し小柄な方にはどこか気後れした様子がある。しかし、浮かぶ表情こそ違えども、顔立ちはどこか似通っており、二人に血縁関係があることが察せられた。


「僕は兄上を支えます。一族のためには、嫡妻(ちゃくさい)の子である兄さんこそが出世をするべきだから」

「何を言う。二人きりの兄弟だろう。私に万が一のことがあった時には、おまえが家を盛り立てなければならないのだ。兄に遠慮などせず、精一杯立身せよ」


 気弱に頷く弟に、兄は理解のある善良な笑顔を浮かべつつ、その仮面の下には侮りを隠している。


 ――弟が私よりも出世することはない。素直で可愛いやつだが、ただそれだけだ。宮廷で身を立てるには凡庸過ぎる男だから、私があいつを庇護してやらねばならない。一生、な。


(きっと異母兄弟、ね)


 深紅の蝶姿をした綾埜(あやの)は冷静な目で二人を観察した。


 心の声が綾埜に響いてくるということは、蝶夢(ちょうむ)の主は兄の方なのだろう。彼はすでに亡くなっており、何らかの事情で正規の羽化師から見放されて(はやて)の手に渡ったのだ。


 綾埜は兄の魂の深い場所に舞い降り、心を重ね合わせた。兄の抱えた鬱屈した感情の動きが、我がことのように感じ取れるようになる。綾埜は彼と、ほとんど完全に同化した。昨年の座学で習ったばかりの手法で実践は初めてだが、上手くいきそうだ。


 ぶわり、と生ぬるい風が吹く。絵草紙が一枚めくれたように、気づけば舞台は夕顔の咲く庭に移っていた。


「兄上、お聞きください」


 弟が頬を紅潮させている。


「実は恋文を交わす相手ができまして」

「ほう、どんな相手だ」

「実は権中納言の妹君なのです」

「権中納言? 左府殿の腹心の?」


 弟はこくこくと首肯する。


「ええ。風流なことで評判の、あの姫君です。まだお会いしたことはないのですが、きっとお姿も美しいでしょう」


 ――左府……左大臣の腹心ならば、そのうち出世するだろう。そうなれば我が弟はいずれ引き立てられて、私を追い抜いていくかもしれない。守ってやらねばならないと思っていた弟が、私よりも高い官位を得るだと? まさかそのようなこと……。


「どこでお近づきになったのだろうとお思いですか? 実はですね、ほら、先日二条で火事がありましたでしょう。出火場所になったのは権中納言の従者小屋だったらしいのですが、姫君が可愛がっておられる猫が、火事に驚いて燃える小屋に飛び込んでしまい。たまたま出仕途中だった私は騒ぎに気づいて猫を……」


 純粋に、恋した姫君とのなれそめを語る弟の声には、出世の下心など欠片もない。


 清すぎるほど透き通った声が徐々に遠のいていき、代わって、どろどろとした嫉妬が世界を染め上げる。斜陽に照らされた夕顔が黒く萎れ、辺りはねっとりとした漆黒に包まれた。やがて光が戻ってきた時、周囲は一面の灰色だった。


 ――見えない。何も、見えない。


「兄上」


 若者と呼べる年頃をとうに過ぎた弟の、貫禄を帯びた静かな声が、灰色の世界に響いている。


「お加減はいかがですか。食事を持って参らせましょう」


 しゅるしゅると、裳を引く音がする。上質な香を焚きしめた衣を纏った女房が部屋へとやってきて、椀の載った折敷(おしき)を置く気配がした。


 軽く声をかけられて、背中に手が添えられた。助け起こしてもらうや否や、食事の器が顔面に近づけられて、粥に浮かぶ香草の香りがふんわりと鼻を刺激する。


 女房に助けられつつ、匙と椀を手に取った。灰色の世界において、鼻と耳、そして手探りの感触だけが、彼の周囲を彩る全てであった。


 彼は、数年前の流行病で高熱を出した後、視力を失ってしまったのだ。


 当時、彼には妻子があったが、嫡妻とその子らは皆、同じ病で命を落としてしまった。絶望の淵に突き落とされたかのようだった。そのまま、気を狂わせて死んでもおかしくはなかった。そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのは、すでに兄の官位を抜いていた、裕福で孝行な弟である。


 亡き妻の家は、妻の甥が養子に入り継ぐことになった。妻の甥は、盲目の男を敬ってくれてはいた。しかし、自尊心の高い男にとって、己が盛り立ててきた家が他の者によって切り盛りされるのを肌で感じるのは、とても居心地が悪いこと。


 結局、熱心な呼びかけに応じる形で、弟の邸宅に厄介になることにしたのであった。しかし。


 ――弟も、心の奥底では私を軽蔑しているに違いない。


 若かりし頃、兄が弟を侮っていたように。


 そう思えば、どす黒い何かで胸が浸水し、日々の恩義など忘れてしまう。時には、子どものような癇癪を爆発させることもあった。


「このようなもの、食えぬ! どうせ目暗だと思い、泥水でも飲ませて殺そうとしているのだろう!」


 椀を板床に叩きつける。女房の小さな悲鳴が空気を裂いた。盲目の老人の気まぐれには皆慣れたものであり、言葉もなくしずしずと椀の欠片が片づけられていく。


 理不尽な叱責を頻繁に飛ばすとなれば、近づく者らも減っていく。自分の世話すらできない身ながら他者を拒むのは、愚かしい行いだと理解はしている。それでも、弟の世話になるのも、甥に寄生して生きていくのも、何もかもが嫌なのだ。


「兄上、粗相もしていない女房を叱るのはご容赦ください。ご不満があるならば、全て私がお聞きしますから」

「何を偉そうに。おまえなど、大した能もないにもかかわらず妻一族の力だけでのし上がったぼんくらだ。そのような不出来な弟から何を言われても、胸に沁みぬわ」

「兄上」

「内裏の皆が、おまえのその、身の丈にそぐわない出世を軽蔑するのを耳にして、兄としてどれほど恥ずかしい思いをしたことか」


 押し黙る間が空いた。しばしの沈黙の後、弟が発した声は穏やかなものだった。


「己の非力は痛いほどに存じております。ですが私はただ、兄上と交わした約束を果たしたかっただけ」

「約束?」

「共に、主上と国のために働こう。そう誓い合ったではありませんか。身を立てて公卿となり帝のお側にお仕えできなくては、十分な働きなどできません。私はこれでも、兄上をお支えしてきたつもりです」

「支える、だと?」

「宮廷で、兄上の出世のために高官に働きかけました。兄上を蹴落とそうとする政敵は、対立が表面化する前に地方へやりました。私は、兄上こそが帝と国をお支えするに相応しい方だと信じて疑ったことはありませんでした」


 そのような根回しをされていたなど、思いもよらないことだった。しかし、弟の献身に涙など出ない。本人にそうと悟らせないように立ち回ったということはつまり。


「私は、侮られていたのだな」

「兄上、違います。私はただ」

「兄などと呼ぶな! おまえのようなもの、兄弟でも何でもない」


 鋭く息を呑む音が鳴った。さすがに言い過ぎたかとは思ったが、表情を確認する術はない。詫びの言葉を発しようと口を開いたのと同時に、衣擦れと床鳴りが遠ざかるのが聞こえた。半開きにした唇は、声を押し込め閉じるより他にない。


 弟が去った後、孤独な老人の周りには、耳に痛いほどの静寂だけが満ちていた。


 そして、まさかこれが、弟と交わす最後の言葉になるとは、思ってもいなかった。

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