第33話 新たな命令
昭和十六年十二月三十日
柱島泊地
朝、秋月誠が甲板へ出ると、昨日までとは明らかに違う慌ただしさが艦内外に広がっていた。年末だからというわけではない。大和の出航準備が、予定より早く始まったのである。
艦橋では航海科が海図を確認し、機関科では出航に備えた点検が進められている。砲術科にも新しい訓練予定が届き、各員が必要な準備を始めていた。
秋月は手渡された書類へ目を落とした。
年明けに予定されていた長時間航海訓練が、さらに前倒しされている。
「少尉、どうです。」
村上兵曹長が横から覗き込む。
「出航が早まりました。」
「何日ほどですか。」
「明日です。」
村上の眉が上がった。
「明日?」
「はい。」
秋月は書類をもう一度確認した。
昭和十六年十二月三十一日、柱島泊地を出航。
瀬戸内海を西へ進み、外海へ出る。
航海中に各部署の総合訓練を実施し、数日後に帰投する予定になっている。
まだ開戦から一か月も経っていない。
それでも艦隊の動きは、急速に変わり始めていた。
「随分と急ですな。」
「戦況の影響でしょうか。」
「恐らく。」
秋月は海図を見つめた。
昨日の未来視が頭をよぎる。
航路。
変更。
「このままでは間に合わない」という声。
そして今、現実でも予定が変わった。
偶然と考えるには、少し気味が悪い。
午前中、艦長から各部署の責任者へ正式な説明が行われた。
今回の航海は戦闘任務ではない。
大和の運用能力を確認するための訓練航海である。
しかし、単なる慣熟航海ではない。
航海中に対空戦闘訓練、通信訓練、機関運転、応急部署、砲術訓練を組み合わせ、実際の作戦行動に近い状況を作る。
さらに、燃料消費や機関の状態、各部署の対応時間を記録する。
大和が長時間行動した場合、どこに問題が生じるのかを確認するためだった。
「各部署、出航までに準備を完了させろ。」
艦長の命令が響く。
「了解!」
士官たちが一斉に答える。
秋月も砲術科へ戻った。
弾薬の確認。
砲塔設備の点検。
通信手順の確認。
対空戦闘時の配置。
やるべきことは多い。
しかも、時間は限られている。
秋月は記録用紙を持って各担当を回った。
いつもの訓練より緊張感がある。
明日には大和が動く。
そして、数日間にわたって航海を続ける。
新造艦である大和にとって、これは大きな試験になる。
午後。
砲術科の準備が一段落した頃、秋月は艦橋へ呼ばれた。
艦橋では艦長と航海長が海図を広げていた。
秋月が敬礼する。
「秋月少尉、今回の航海では記録を頼む。」
「了解しました。」
「砲術だけではない。」
航海長が言った。
「発見、報告、命令、行動。」
「各段階の時間をできる限り残してくれ。」
「艦全体の動きを後から確認したい。」
「承知しました。」
秋月は海図へ目を向けた。
瀬戸内海を抜け、西へ向かう航路。
その先には広い海がある。
秋月は海図の線を追いながら、昨日の未来視を思い出していた。
見えた航路とは違う。
少なくとも、今の航路は史実で知っているものと大きく矛盾してはいない。
しかし、未来視では別の線が伸びていた。
もし、あれがこの先の出来事なら。
どこかで航路が変わる。
その原因が何なのかは分からない。
秋月は海図から目を離した。
「少尉。」
「はい。」
「どうした。」
「いえ。」
秋月は首を振った。
「航海の記録をしっかり取ります。」
航海長が頷いた。
夕方になると、大和の出航準備はほぼ終わった。
艦内では最後の点検が続いている。
秋月は砲術科の記録簿を整理し、自分の荷物を確認した。
長い航海になる。
これまでとは違い、海上で数日を過ごす。
当然、訓練も増える。
そして何より、海域が変わる。
それが秋月には気になっていた。
夜。
出航前の艦内は静かだった。
必要な準備を終えた乗組員たちは、それぞれの持ち場で待機している。
秋月は当直へ向かう途中、通信室の前を通った。
中では通信員が忙しく動いている。
戦況が変化している。
それに伴って通信量も増えていた。
秋月は足を止めず、そのまま通り過ぎた。
艦橋へ上がる。
夜の海は暗く、遠くの灯がわずかに見える。
航海長が海図を確認していた。
「明日は早い。」
「はい。」
「初めて長く海へ出る者も多い。」
「大和にとっても、まだ経験の浅い航海になります。」
「そうだ。」
航海長は海図を畳んだ。
「だからこそ、問題を一つでも多く見つける。」
「問題を見つけることが失敗ではない。」
「次に直せるなら、それは成果だ。」
秋月は頷いた。
その考え方は、自分が記録を取る理由と同じだった。
その時、艦橋へ伝令が入った。
「通信長より報告です。」
「何だ。」
「先ほど司令部から追加電報が入りました。」
艦橋の空気が変わった。
「内容は。」
「出航後の通信について、指定された時間に定時報告を行うようにとのことです。」
航海長が顔を上げる。
「定時報告か。」
「はい。」
「分かった。通信長へ伝えておけ。」
「了解しました。」
伝令が去る。
秋月は黙って海を見た。
訓練航海。
それだけのはずだった。
だが、司令部から定時報告まで求められている。
大和の動きそのものが、以前より細かく見られている。
そして、その夜。
秋月の未来視が起きた。
視界が暗くなる。
海図が現れる。
今度ははっきりと見えた。
大和の現在位置。
その先に伸びる航路。
だが、途中に大きな印が付いている。
その場所で、航路が二つに分かれていた。
一方は秋月が知っている歴史へ続く線。
もう一方は、見たことのない方向へ伸びている。
誰かが海図の上へ手を置く。
「予定を変える。」
声が聞こえた。
「このままでは間に合わない。」
秋月は目を見開く。
次の瞬間、海図が消えた。
暗い海。
遠くに見える艦影。
そして、一機の航空機が夜空を横切る。
そこで未来視が途切れた。
秋月は息を整えた。
今度は場所が分かった。
少なくとも、これから大和が進む航路のどこかだ。
未来視が現実の航海と重なっている。
ならば、これから起きる何かが、大和の進路を変える可能性がある。
秋月は海図へ目を向けた。
明朝、大和は出航する。
その先に何が待っているのか。
まだ分からない。
だが、今回はこれまでの訓練とは違う。
大和自身が動く。
そして秋月も、その艦に乗って動く。
昭和十六年最後の夜。
大和は静かに海へ浮かんでいた。
翌朝、この巨大な戦艦は柱島泊地を離れる。
秋月は当直を続けながら、夜の海を見つめていた。
歴史は、静かに次の頁へ進もうとしていた。
――続く。
あとがき
第33話「新たな命令」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、大和の長時間航海訓練が前倒しされ、翌日の出航が決まるところまで描きました。
開戦直後の日本海軍は、各方面で作戦が進む中、艦隊の行動準備や訓練を進めていく必要がありました。本作では、その流れを踏まえながら、大和が新造艦として運用能力を高めていく過程を描いています。
そして秋月の未来視では、これまでより明確に「航路が分岐する光景」が見えました。
明日、大和は柱島泊地を離れます。
その航海が、秋月の知る歴史とどのように交わるのか。
次回 第34話「柱島を離れる」




