第32話 司令部の判断
昭和十六年十二月二十九日
柱島泊地
朝の柱島泊地には、冷たい北風が吹いていた。大和は錨を下ろしたまま、年末の慌ただしさとは無縁のように静かに海上に浮かんでいる。しかし、艦内では朝から各部署の動きが活発だった。数日間にわたって行われた訓練の結果を受け、航空機を発見した際の報告手順や、各部署への命令伝達について細かな見直しが始まっていた。
秋月誠は砲術科の記録簿を開き、昨日までの訓練結果を整理していた。発見から報告までの時間、報告を受けてから対空戦闘準備へ移るまでの時間、さらに命令変更が行われた際の各部署の対応。数字を並べていくと、最初の頃に比べてわずかながら改善していることが分かる。
しかし、秋月には気になっていることがあった。
昨夜見た光景。
暗い部屋に広げられた海図。
そこへ伸びていく一本の線。
そして聞こえた声。
「このままでは間に合わない」
何に間に合わないのかは分からない。そもそも、あれがいつの出来事なのかすら判断できなかった。
未来視は以前から不規則だった。見える時間も、場所も、内容も一定していない。だからこそ、秋月は見えたものをそのまま事実だとは考えないようにしていた。
だが、最近の光景には妙な共通点がある。
海図。
航路。
そして、何かを変更しようとする意思。
それだけが、頭から離れなかった。
「少尉。」
村上兵曹長が声を掛けた。
「はい。」
「艦橋から連絡です。」
「何かありましたか。」
「司令部から人が来るそうです。」
秋月は記録簿を閉じた。
数日前にも司令部から参謀が訪れている。その時は大和の訓練状況と秋月が作成した記録についての確認だった。
今回も訓練関係なのか。
それとも別の命令なのか。
秋月には分からなかった。
「いつ頃ですか。」
「午前中には到着するとのことです。」
「分かりました。」
秋月は立ち上がった。
その頃、艦橋ではすでに艦長以下の幹部が準備を進めていた。
午前十時頃、柱島泊地へ一隻の内火艇が近づいてきた。乗艇している海軍士官の姿が見える。内火艇が大和へ横付けされ、士官たちが順に舷梯を上がってきた。
先頭の士官を艦長が出迎える。簡単な挨拶を交わした後、一行は艦内へ入っていった。
しばらくすると、秋月にも艦長室へ来るよう命令が届いた。
秋月が艦長室へ入ると、机の上には数冊の記録簿が並べられていた。航空機対応訓練、通信訓練、機関科との合同訓練。そこには秋月が記録した数字も含まれている。
司令部から来た士官は、その記録を一冊ずつ確認していた。
「秋月少尉。」
「はい。」
「君が、この訓練記録を作成したのだな。」
「はい。」
「航空機を発見してから、対空戦闘準備へ移るまでの時間を細かく記録している。」
「その通りです。」
士官は記録簿を閉じた。
「なぜ、この方法を始めた。」
秋月は少し考えた。
未来を知っているからとは言えない。
自分が知っている戦争の結末を語ることもできない。
だから、現場で感じたことだけを答える。
「同じ訓練を繰り返しても、どこで時間を使っているのか分からなければ改善できないと思ったからです。」
「時間だけを見ればいいのか。」
「いいえ。」
秋月は答えた。
「時間だけでは不十分です。」
「例えば、準備時間が短くなっても、その間に確認漏れが増えれば意味がありません。」
士官は秋月を見つめた。
やがて、小さく頷く。
「その考え方は悪くない。」
艦長が口を開いた。
「司令部では、この記録方法を他艦でも試すことを検討しているそうです。」
秋月はわずかに目を見開いた。
「他艦でも、ですか。」
「そうだ。」
士官が答える。
「大和だけで続けても、比較する対象がなければ評価しにくい。」
「同じ条件で記録を取れば、艦ごとの違いも見えてくる。」
「ただし、正式な採用が決まったわけではない。」
「まずは試験的に行う。」
「了解しました。」
秋月は敬礼した。
自分が何気なく始めた記録が、ここまで広がるとは思っていなかった。
だが、司令部が関心を持つのは当然でもある。
大和は新造艦であり、乗組員も新しい艦を扱う経験を積んでいる途中だ。
その運用能力を測るには、感覚だけでなく具体的な記録が必要になる。
「もう一つある。」
士官が別の書類を取り出した。
「大和の訓練予定が変更された。」
艦長が書類を受け取る。
秋月もその内容を確認した。
年明けから、これまでより長い航海を想定した訓練を行う予定になっている。
「泊地周辺だけではなく、より広い海域での訓練を行う。」
士官が説明する。
「航海、機関、通信、砲術、応急。」
「各部署を個別に見るのではなく、艦全体の連携を確認する。」
秋月は海図へ目を落とした。
そこには瀬戸内海から外海へ出るための航路が示されている。
年明け早々から、この新しい訓練が始まる。
これまでより大きな負担になることは間違いない。
だが、大和を実戦で運用するためには避けて通れない訓練でもあった。
「開戦したばかりだ。」
士官が静かに言った。
「今後、艦隊がどのような任務を受けることになるかは分からない。」
「だからこそ、今のうちに艦の能力を把握しておく必要がある。」
秋月はその言葉を聞きながら、胸の奥に重いものを感じていた。
史実を知る秋月にとって、大和が将来どこへ向かうのかは分かっている。
しかし、今の時点で大和がどのように運用されるのかは、まだ決まっていない。
まして、自分がここにいることで、わずかながら変化が生じている。
だからこそ、未来の記憶をそのまま当てはめることはできなかった。
「秋月少尉。」
「はい。」
「君には、今後も記録を続けてもらいたい。」
「私が、ですか。」
「そうだ。」
士官は記録簿を指した。
「数字だけではなく、訓練中に発生した問題も記録しておけ。」
「何が原因で遅れたのか。」
「どの部署で混乱が起きたのか。」
「逆に、うまくいった理由は何なのか。」
「分かる範囲でいい。」
秋月は頷いた。
「承知しました。」
「ただし、一つ覚えておけ。」
士官の表情が少し厳しくなった。
「記録は手段だ。」
「数字が良くなったからといって、艦が強くなったとは限らない。」
「実際に動く人間を見ろ。」
秋月はその言葉を聞いて、数日前に村上から言われた言葉を思い出した。
戦争は人がやるもの。
砲を撃つのも人。
飯を炊くのも人。
怪我人を運ぶのも人。
数字には表れない部分がある。
秋月は深く頷いた。
「肝に銘じます。」
司令部から来た士官は満足したように頷いた。
その後、一行は艦内を視察して回った。
砲術科では砲塔や弾薬庫の管理状況を確認し、通信科では通信手順について質問する。機関科では機関の状態について説明を受ける。
大和はまだ完成したばかりの艦である。
新しい設備が多い一方、それを扱う乗組員の経験はまだ十分とは言えない。
だからこそ、こうした視察には意味があった。
午後になり、司令部の士官たちは大和を離れることになった。
艦長以下の士官が見送る中、内火艇がゆっくりと大和から離れていく。
秋月は甲板からその姿を見ていた。
村上が隣へ立つ。
「また忙しくなりそうですな。」
「ええ。」
「年が明ければ、長い航海も始まる。」
「そうなりますね。」
村上は海を見ながら言った。
「新しい艦というのは、覚えることが多いものです。」
「艦だけじゃありません。」
「乗っている人間も、少しずつ変わっていきます。」
秋月は黙って頷いた。
その時だった。
視界が揺らいだ。
周囲の音が遠ざかる。
海面が消え、別の光景が現れた。
暗い部屋。
机の上には海図が広げられている。
今度は前に見たものとは少し違っていた。
一本の航路が赤い線で引かれている。
その途中に、黒い印がいくつも付けられていた。
誰かの手が海図の上へ伸びる。
赤い線を指でなぞる。
そして、別の方向へ線を引いた。
「このままでは間に合わない。」
聞き覚えのある声だった。
次の瞬間、場面が変わる。
荒れる海。
低い雲。
遠くに見える艦影。
艦橋から誰かが海を見ている。
秋月には、その艦が大和なのかどうか判断できなかった。
さらに一瞬だけ、海図の上に一つの文字が浮かぶ。
「変更」
そこで映像が途切れた。
秋月は甲板へ戻っていた。
手すりを握っている。
冷たい風が頬を打つ。
村上が心配そうに見ていた。
「少尉。」
「……はい。」
「顔色が悪いですが。」
「大丈夫です。」
秋月は深く息を吸った。
未来視の中で見えた海図。
変更された航路。
そして、間に合わないという言葉。
以前とは違う。
何かが起きる前の準備を見ているような感覚だった。
しかし、それが誰によって行われているのかは分からない。
秋月は視線を海へ戻した。
司令部から新しい訓練命令が届いた。
大和の訓練内容が変わった。
未来視でも、航路が変わっていた。
偶然なのか。
それとも、何かが繋がっているのか。
今の秋月には判断できなかった。
だからこそ、焦ってはいけない。
未来視で見えたものを根拠に行動すれば、かえって歴史を誤った方向へ動かしてしまう可能性もある。
まずは事実を集める。
今起きていることを記録する。
そして、未来視と現実の間にある違いを見つける。
秋月はそう決めた。
夕方、大和の艦内では年明けの航海訓練に向けた準備が始まっていた。
燃料、食料、弾薬、機関、通信設備。
長時間の航海に必要なものが一つずつ確認されていく。
秋月も砲術科の記録簿を整理した。
最後のページを開き、今日の出来事を書き込む。
「訓練計画変更。長時間航海訓練を実施予定。」
さらに少し考え、もう一行を書いた。
「未来視にて航路変更を確認。」
秋月はそこでペンを止めた。
未来視の内容については、誰にも話せない。
今はまだ、それが何を意味するのか分からないからだ。
記録簿を閉じる。
窓の外は、すでに暗くなり始めていた。
大和は静かに柱島の海へ浮かんでいる。
明日も訓練がある。
そして、年が明ければ新しい航海が始まる。
秋月はまだ知らなかった。
その航海が、大和だけではなく、自分自身が知っている歴史との違いをはっきりと意識する最初の機会になることを。
――続く。
あとがき
第32話を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、司令部による大和の訓練状況の確認と、それを受けた今後の訓練計画について描きました。
大和は昭和十六年十二月に就役したばかりの新造戦艦であり、乗組員にとっても新しい艦を実際に運用するための訓練は重要な段階でした。そのため、単純な砲術だけではなく、航海、機関、通信、応急などを含めた総合的な訓練へ重点を移していく流れを描いています。
そして秋月の未来視では、またしても航路の変更を示す光景が現れました。
まだ、それが何を意味するのかは分かりません。
ただ、秋月が知っている歴史と、実際に目の前で進んでいる出来事との間には、少しずつ違いが生まれ始めています。
次回 第33話「新たな命令」




