第31話 変わり始める訓練
昭和十六年十二月二十八日
柱島泊地
朝の柱島泊地には、冷たい風が吹いていた。
大和は錨を下ろしたまま、昨日の電報を受けて組み直された訓練計画に従い、朝から各部署の準備が進められていた。これまでの慣熟訓練とは違い、今日からは実戦を強く意識した内容になる。航空機への対処、長時間航海を想定した機関運用、通信手順の確認、そして複数の部署が同時に動く総合訓練。艦内の空気は、明らかに以前とは違っていた。
秋月誠は砲術科の持ち場で、昨日までの記録を整理していた。航空機への対応時間だけではない。見張り員の報告から艦橋での判断、各砲への伝達、射撃準備まで、すべてを一つの流れとして記録することになっている。
これまでなら、訓練が終われば「異常なし」で済んでいた部分まで細かく確認する。
面倒な作業ではある。
しかし、秋月にはその意味が分かっていた。
戦場では、一つの遅れが命取りになる。
その遅れがどこで生まれるのかを、平時のうちに見つけなければならない。
「少尉、これで全部です。」
村上兵曹長が書類を持ってきた。
「ありがとうございます。」
「しかし、随分と記録が増えましたな。」
「増えましたね。」
秋月は苦笑した。
「昨日までは一枚で済んだものが、今日は三枚です。」
「紙も戦力ですか。」
「使いすぎると怒られそうですけどね。」
村上が小さく笑った。
その直後、艦内へ号令が響く。
「総合訓練開始!」
空気が一瞬で変わった。
各部署が動き始める。
想定は、敵航空機の接近。
見張り員が空を監視し、航海科が針路を確認する。通信科が情報を受け取り、艦橋から各部署へ命令が伝達される。砲術科では対空戦闘の準備が進められた。
秋月は時計を確認する。
発見。
報告。
判断。
伝達。
準備。
昨日までなら、これらは別々の訓練だった。
今日は違う。
すべてを一つの流れとして行う。
見張り員の声が響いた。
「右舷前方、航空機!」
「距離!」
「約一万二千!」
艦橋から命令が飛ぶ。
「対空戦闘用意!」
砲術科が動く。
秋月は時間を記録しながら、周囲の動きを確認した。
昨日より早い。
さらに、伝達の混乱も少ない。
だが、完全ではない。
一部の報告が重なっている。
誰が何を伝えるのか、一瞬迷った場面もあった。
秋月はその部分へ印を付けた。
訓練が終了する。
各部署が装備を戻し、結果の確認へ入った。
秋月は記録をまとめる。
「村上兵曹長。」
「はい。」
「ここです。」
秋月が記録を指差す。
「見張りから艦橋への報告は早い。」
「しかし、その後の情報整理に少し時間がかかっています。」
「確かに。」
「報告を増やせばいいわけではありません。」
秋月は考えた。
「むしろ、必要な情報を最初に決めておいた方がいい。」
「航空機の種類、方向、距離。」
「それに高度も必要でしょうな。」
「はい。」
村上が頷く。
「報告項目を統一するわけですか。」
「そうです。」
秋月は記録用紙の余白へ書き込んだ。
敵機。
方向。
距離。
高度。
機数。
進行方向。
それだけでも、報告を受ける側は判断しやすくなる。
未来の知識を使ったわけではない。
ただ、昨日までの訓練結果を整理しただけだ。
それでも、こうした小さな改善が積み重なれば、艦の動きは変わる。
昼前、訓練結果は艦長へ提出された。
艦長は記録を一通り確認した後、秋月へ視線を向けた。
「報告項目を統一する案か。」
「はい。」
「誰の発案だ。」
「私です。」
艦長はしばらく黙っていた。
「理由は。」
「情報が多すぎると、受ける側が判断に迷うからです。」
「必要な情報だけを先に伝える。」
「その方が初動は早くなると思います。」
艦長は頷いた。
「試してみよう。」
「ただし、現場で使えなければ意味がない。」
「はい。」
「明日の訓練で確認する。」
「了解しました。」
秋月は敬礼した。
また一つ、訓練が変わる。
その変化は小さい。
しかし、秋月にとっては大きかった。
自分が未来を知っていることを誰にも知られずに、今の大和を少しずつ変えている。
それが、今の自分にできる唯一の方法なのかもしれない。
午後には、長時間航海を想定した機関科との合同訓練が行われた。
機関の異常を想定し、一部の出力を落とした状態で航行を続ける。
艦橋では航海長が状況を判断し、機関科が対応する。
さらに通信科から司令部へ報告を送る。
秋月は砲術科の担当として参加しながら、艦全体の動きを見ていた。
大和は巨大な艦だ。
だからこそ、一つの部署だけが優秀でも意味がない。
機関が止まれば動けない。
通信が遅れれば命令が届かない。
見張りが失敗すれば敵を見つけられない。
砲術が遅れれば撃てない。
すべてが繋がっている。
訓練終了後、各部署から結果が集められた。
そこで、思わぬ問題が見つかった。
通信科からの報告が一部遅れていた。
原因は単純だった。
別の訓練命令と重なったため、通信担当者が一時的に混乱したのだ。
艦長はすぐに対応を決めた。
重要度に応じて通信を整理し、緊急時には専用の手順を使う。
これもまた、小さな変更だった。
しかし、その日のうちに訓練計画へ組み込まれた。
夕方。
秋月は甲板へ出ていた。
海は穏やかだった。
だが、艦内では朝から何度も訓練が繰り返されている。
昨日までの大和と今日の大和。
同じ艦なのに、少しずつ動きが違っている。
秋月は手すりへ手を置いた。
その時、背後から声がした。
「少尉。」
振り返ると、村上だった。
「まだ仕事ですか。」
「少し考え事を。」
「最近、考え事が増えましたな。」
「そうですね。」
秋月は海へ視線を戻した。
「この艦、少しずつ変わっていると思いませんか。」
村上は大和の艦体を見上げた。
「艦が変わるわけではありません。」
「人間が変わっているんでしょう。」
「……そうかもしれません。」
村上は静かに言った。
「訓練を重ねれば、人間の動きは変わります。」
「最初は命令を待つ。」
「次は、命令が来る前に準備する。」
「最後には、何をすべきか自分で分かるようになる。」
秋月はその言葉を聞いていた。
それは、秋月が望んでいたものに近かった。
未来を変えるということは、必ずしも大きな命令を出すことではない。
一人ひとりの判断が少しずつ変わる。
その積み重ねが、艦全体を変える。
その時だった。
秋月の視界が揺らいだ。
未来視。
そう気付いた瞬間、景色が変わる。
暗い海。
大和の艦橋。
激しい雨。
艦橋内を走る伝令。
そして、机の上へ置かれた一枚の紙。
紙には、見覚えのない日付が書かれている。
その下に、短い文字が並んでいた。
「作戦変更」
秋月の心臓が跳ねた。
誰かの声が聞こえる。
「予定を変える。」
次の瞬間、爆発音。
映像が途切れた。
秋月は手すりを強く握った。
呼吸が乱れる。
未来視の内容が、これまでとは明らかに違っていた。
戦闘そのものではない。
作戦が変更される場面。
つまり、これから起きる出来事の前提そのものが変わる可能性がある。
秋月は空を見上げた。
雲が流れている。
夕暮れの空は、まだ静かだった。
しかし、その静けさの向こうで、何かが動いている。
自分が変えたからなのか。
それとも、別の誰かが変えようとしているのか。
まだ分からない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
未来は、もう固定されたものではない。
秋月が知っていた歴史と、今この瞬間に生まれている歴史。
その二つの間に、少しずつ差が生まれている。
そして、その差はこれからさらに大きくなる。
夜。
艦内では翌日の訓練準備が進められていた。
新しい報告手順。
通信手順。
航空機への対応。
そして長時間航海への備え。
大和は少しずつ、戦争へ向けた艦へ変わり始めていた。
秋月は自室で記録をまとめながら、最後に一行を書き加えた。
「歴史の変化、継続して確認。」
ペンを置く。
まだ何も大きく変わってはいない。
だが、確実に何かが動き始めていた。
――続く。
あとがき
第31話「変わり始める訓練」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、大和の訓練が少しずつ実戦を意識したものへ変わっていく過程を描きました。
航空機への対応だけではなく、通信、機関、航海など、それぞれの部署が一つの艦として連携することを重視するようになっています。
そして秋月の未来視にも、新しい変化が現れました。
これまでの未来視は「何が起きるか」を見るものが中心でしたが、今回は「作戦変更」という、歴史そのものが動く兆候が見えています。
秋月が知っている史実と、現在進んでいる歴史。
その差が、これから少しずつ大きくなっていきます。
次回 第32話「司令部の判断」




