第30話 届いた電報
昭和十六年十二月二十七日
柱島泊地
夜の柱島泊地は静まり返っていた。
帰投した大和は錨を下ろし、長時間の航海を終えていた。艦内では各部署が機関の状態や航海記録を確認し、乗組員たちはようやく一日の勤務を終えようとしている。
秋月誠も砲術科の記録をまとめ、自室へ戻ろうとしていた。
その時、艦橋付近から伝令が走ってきた。
「秋月少尉。」
「はい。」
「艦長室へ来るようにとのことです。」
秋月は足を止めた。
この時間に呼び出されることは珍しい。
しかも、伝令の表情が硬い。
「何かありましたか。」
「詳しいことは聞いておりません。」
「分かりました。」
秋月はすぐに艦長室へ向かった。
廊下を進むにつれて、艦内の空気が変わっていくのを感じる。
普段なら、この時間の艦内には一日の勤務を終えた乗組員たちのわずかな話し声がある。
だが今夜は違った。
誰もが何かを感じ取っているように、静かだった。
艦長室の前には、すでに数名の士官が集まっていた。
秋月が敬礼すると、扉が開く。
「入れ。」
秋月は室内へ入った。
艦長のほか、航海長、通信長、砲術長が揃っている。
机の上には一枚の電報が置かれていた。
艦長がそれへ目を落とす。
「先ほど、司令部から電報が入った。」
秋月は姿勢を正した。
艦長は続ける。
「南方方面の戦況についてだ。」
その言葉だけで、秋月には内容が想像できた。
だが、知っていることと、今ここで伝えられる情報は別だ。
秋月は黙って聞いた。
艦長は電報の内容を確認しながら話す。
「各方面で作戦が進展している。」
「それに伴い、第一艦隊にも今後の行動に備えるよう指示が出された。」
秋月の胸がざわつく。
まだ大和が直接戦場へ向かうという話ではない。
しかし、これまでの訓練とは意味が違う。
大和は柱島泊地周辺で慣熟訓練を続けていた。
それが、いよいよ戦争そのものを意識した準備へ変わり始めている。
「具体的な命令は?」
航海長が尋ねる。
「まだない。」
艦長は短く答えた。
「ただし、いつでも出動できるよう準備を進める。」
室内が静かになる。
秋月はその言葉を聞きながら、未来の記憶を思い返していた。
大和がこの戦争でどのような運命を辿るのか。
それは知っている。
だが、今はまだ昭和十六年十二月。
歴史は始まったばかりだ。
そして、自分がすでにいくつかの訓練を変えている。
昨日までなら史実と同じだと思えた出来事が、少しずつ違う形になり始めている。
それなら、この先も同じとは限らない。
秋月は電報へ目を向けた。
「今後の訓練内容は変わりますか。」
「変える。」
砲術長が答えた。
「航空機への対応を増やす。」
「それだけではない。」
艦長が続ける。
「長時間航海を想定した訓練も増やす。」
「燃料、機関、通信、応急、砲術。」
「各部署が単独で動くのではなく、艦全体で対応できるようにする。」
秋月は頷いた。
まさに昨日、司令部から求められていたことだった。
大和という巨大な艦を、単なる兵器としてではなく、一つの戦闘組織として動かす。
その準備が始まろうとしている。
「明日から、訓練計画を組み直す。」
艦長が言う。
「それから、秋月。」
「はい。」
「航空機への対応について、今日の記録をまとめておけ。」
「司令部へ提出する。」
「了解しました。」
秋月は敬礼した。
話は終わったように思えた。
だが、艦長は電報を手にしたまま動かなかった。
「もう一つある。」
秋月が顔を上げる。
「この電報とは別に、先ほど通信長から報告があった。」
通信長が一歩前へ出る。
「本日、南方方面からの通信量が増えています。」
「通常の作戦通信とは少し違うものもあります。」
秋月は眉を寄せた。
「違うもの?」
「断片的な通信です。」
「内容は?」
「詳しくは分かりません。」
通信長は首を横に振る。
「ただ、同じ時間帯に複数の通信が集中していました。」
秋月は黙り込んだ。
戦争が始まれば通信が増えるのは当然だ。
だが、秋月には嫌な感覚があった。
未来を知っているからこそ、こうした小さな変化に敏感になっている。
しかし、それが本当に歴史の変化なのかは分からない。
まだ判断できない。
艦長も同じだったのだろう。
「現時点では気にする必要はない。」
艦長が言う。
「ただし、通信長。」
「はい。」
「何か変化があれば、すぐ報告してくれ。」
「了解しました。」
会議はそこで終わった。
秋月は艦長室を出た。
廊下を歩きながら、先ほどの話を思い返す。
南方方面の戦況。
航空機への対応。
増加する通信。
どれも単独では異常とは言えない。
だが、すべてが同じ方向を向いているように感じる。
戦争が広がっている。
そして、日本海軍もまた、それに合わせて動き始めている。
自室へ戻る前に、秋月は一度甲板へ出た。
夜の海は暗かった。
柱島の灯が遠くに見える。
大和の周囲には、同じように停泊する艦艇の影が浮かんでいた。
秋月は海を見ながら、未来視について考えた。
最近、未来を見ていなかった。
いや、正確には見てはいる。
だが、以前のように長い映像ではない。
一瞬の光景ばかりだ。
炎。
航空機。
魚雷。
荒れる海。
そして、名前の分からない艦。
それらが何を意味するのか、まだ分からない。
秋月は目を閉じた。
その瞬間だった。
視界が暗くなる。
海ではない。
部屋だった。
机の上に地図が広げられている。
そこには南方の海域が描かれていた。
複数の赤い線。
そして、その中に一本だけ、青い線が引かれている。
誰かの手が地図の上へ伸びる。
指先がある地点で止まった。
「ここを変える。」
男の声が聞こえた。
秋月は息を呑む。
誰の声なのか分からない。
だが、その言葉だけははっきり聞こえた。
次の瞬間、地図の上へ黒い線が引かれる。
それは史実で知っている航路とは違っていた。
秋月は目を開いた。
甲板に戻っている。
冷たい風が頬を打つ。
心臓が激しく鳴っていた。
今までの未来視とは違う。
誰かが未来を変えようとしているような映像だった。
だが、誰が。
そして、何を変えるのか。
秋月には分からない。
ただ一つだけ分かったことがある。
未来は、自分だけが変えようとしているわけではない。
もしかすると、自分の知らないところでも歴史を動かそうとしている人間がいる。
それが味方なのか。
敵なのか。
まだ判断できない。
秋月は夜の海を見つめた。
今まで、自分は未来を知る者として歴史に介入しているつもりだった。
だが、もし他にも歴史を変えようとしている人間がいるのなら。
自分が知っている未来は、すでに未来ではない。
それは、変わり始めた過去なのだ。
秋月は静かに拳を握った。
翌朝から訓練が変わる。
大和の準備も変わる。
そして、戦争の流れも少しずつ変わり始めている。
その変化がどこへ向かうのか。
秋月にはまだ分からなかった。
ただ、今までとは違う未来が動き始めている。
そのことだけは、確かだった。
――続く。
あとがき
第30話「届いた電報」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、南方の戦況を受けて大和の訓練がさらに実戦を意識したものへ変わっていく流れを描きました。
そして今回、秋月はこれまでとは少し違う未来視を経験します。
これまでは「未来に起こる出来事」を見ることが中心でした。しかし、今回見えたのは、誰かが未来を変えようとしているようにも見える光景でした。
秋月自身の行動によって歴史が変わり始めているのか。それとも、別の要因が存在するのか。
ここから少しずつ、第二章の物語を動かしていきます。
次回からは、大和の訓練だけではなく、戦争そのものの動きと秋月の行動が絡み合っていくことになります。
次回 第31話「変わり始める訓練」




