第29話 空からの警告
昭和十六年十二月二十七日
瀬戸内海沖
夜が明ける頃、大和は予定された航海を続けていた。昨夜の航空機との遭遇以降、見張り員たちは以前にも増して空へ注意を向けている。味方機だったとはいえ、暗い空の中から突然現れた一機の航空機が、艦内へ与えた緊張は大きかった。
秋月誠は早朝の砲術科点検を終え、前日の訓練記録を確認していた。航空機を想定した訓練では、発見から報告、報告から各部署への伝達までにいくつかの遅れがあった。特に問題だったのは、最初に航空機を発見した見張り員の情報が、艦内全体へ伝わるまでの時間だった。
秋月は記録用紙へ赤鉛筆を入れながら考える。
航空機は速い。
だからこそ、数十秒の遅れが意味を持つ。
未来で見た魚雷の航跡が頭に浮かぶ。
あの時、もし大和が攻撃を受けていたなら。
見つけるのが十秒遅れたら。
報告がさらに十秒遅れたら。
命令が十秒遅れたら。
それだけで結果が変わる可能性がある。
秋月は記録用紙を閉じた。
「少尉、朝から難しい顔をしていますな。」
村上兵曹長が声を掛けてきた。
「昨日の記録を見ていました。」
「航空機の件ですか。」
「はい。」
「やはり、気になりますか。」
「ええ。」
秋月は記録用紙を開いた。
「見張り員が航空機を発見してから、報告が艦橋へ届くまで。そこから各部署へ伝わるまで。それぞれに少しずつ時間があります。」
「全部合わせれば、かなりの時間になりますな。」
「そうです。」
村上は記録を見ながら頷いた。
「では、どうします。」
秋月は少し考えた。
「発見した時点で、まず艦橋へ報告する。それと同時に、対空戦闘の準備へ移れるようにしておくべきだと思います。」
「つまり、命令を待つ時間を減らす。」
「はい。」
村上はしばらく黙っていた。
「しかし、勝手に動けば別の問題が出ます。」
「分かっています。」
秋月もそこは理解していた。
軍隊では命令系統が重要だ。
誰もが勝手に判断すれば、艦内が混乱する。
だから必要なのは、命令を無視することではない。
あらかじめ「どの段階までなら各部署が準備してよいのか」を決めておくことだ。
秋月はその考えをまとめ、訓練案として記録に残すことにした。
午前の訓練では、昨日と同じ航空機接近を想定することになった。
見張り員が航空機を発見する。
報告。
艦橋から各部署へ伝達。
対空戦闘準備。
そして射撃。
単純な訓練だった。
だが、昨日とは違う。
各部署が昨日の結果を知っている。
どこで時間がかかったのかも分かっている。
訓練開始から数分後、見張り員の声が響いた。
「右舷前方、航空機!」
すぐに報告が続く。
「距離、一万!」
「方位、右舷三十度!」
秋月は時計を見る。
昨日より早い。
さらに艦橋から命令が飛ぶ。
「対空戦闘用意!」
各部署が動く。
砲術科でも準備が始まった。
秋月は時間を記録しながら、周囲の動きを確認する。
昨日より明らかに速い。
訓練終了後、記録を確認すると、発見から準備完了までの時間は大きく短縮されていた。
「かなり改善しましたな。」
村上が記録を見て言う。
「昨日の問題が分かっていたからです。」
「つまり、記録した意味があった。」
「そういうことだと思います。」
秋月は記録用紙を見つめた。
数字は小さい。
歴史書には残らない。
誰かが知ることもないかもしれない。
それでも、この数十秒が誰かの命を救う可能性がある。
そのことを、秋月は強く意識していた。
昼前、艦長から呼び出しがあった。
艦長室へ入ると、昨日と同じように数名の士官が集まっていた。
机の上には、航空機への対応訓練に関する記録が置かれている。
「秋月。」
「はい。」
「昨日の提案についてだ。」
艦長は記録へ目を落とした。
「今日の訓練では、対応時間がかなり短くなった。」
「はい。」
「司令部へも報告する。」
秋月は少し驚いた。
「司令部へ、ですか。」
「昨日から続いている訓練計画の一部としてな。」
艦長は続けた。
「大和だけでなく、今後の艦隊訓練にも応用できる可能性がある。」
秋月は黙って頷いた。
また一つ、自分の提案が広がっていく。
だが、今回はそれだけではなかった。
「それから。」
艦長の表情が変わる。
「昨夜、司令部から新しい電報が入った。」
秋月の胸がざわついた。
「何かありましたか。」
「南方の戦況についてだ。」
室内の空気が重くなる。
艦長は詳細を話す前に、周囲を確認した。
「マレー方面、フィリピン方面ともに戦闘が続いている。」
「そして、航空戦力の重要性が改めて認識されている。」
秋月は黙って聞いていた。
知っている。
これから戦争は、さらに広がっていく。
海軍にとって航空機はますます重要になる。
そして戦艦の価値そのものも、これまでとは違う形で問われるようになる。
だが、今の秋月にできるのは、その未来を口にすることではない。
目の前の大和を変えることだった。
「少尉。」
「はい。」
「君が言った通り、これからは空への対応も重要になる。」
艦長は記録を閉じた。
「だから、航空機を想定した訓練を継続する。」
「了解しました。」
秋月は敬礼した。
艦長室を出る。
通路を歩きながら、秋月は考えていた。
未来は確実に近づいている。
そして、自分が知っている未来と、今ここにある現実が少しずつ重なり始めている。
それが怖かった。
未来視を見るたびに、未来が近づいていることを実感する。
だが、もう逃げるつもりはなかった。
その日の午後、大和は航海を続けた。
昼過ぎから風が強くなり、海面には朝よりも大きな波が立ち始めていた。
航海科から針路変更の指示が出される。
機関科が速力を調整する。
各部署がそれぞれの役割を果たしていく。
秋月は甲板から海を見つめた。
水平線の向こうには何も見えない。
だが、空は厚い雲に覆われている。
しばらくして、再び見張り員の声が響いた。
「航空機!」
秋月が空を見上げる。
今度は一機ではない。
遠くに二つの機影が見えた。
「方位!」
「左舷前方!」
艦橋が動く。
だが、秋月はすぐに違和感を覚えた。
機影が近づいてくる。
しかし、動きがおかしい。
一定の針路を取っているわけではない。
訓練機のような飛び方でもない。
秋月は双眼鏡を手に取った。
そして、見た。
機体の形。
翼。
双発のエンジン。
それは、朝まで見ていた訓練用の想定図とは違っていた。
秋月の背筋に冷たいものが走る。
「少尉?」
村上が声を掛ける。
「……味方機かどうか、確認してください。」
見張員が識別を続ける。
やがて報告が入った。
「味方機です!」
秋月は息を吐いた。
だが、安心した直後。
世界が揺らいだ。
視界が暗くなる。
海が荒れている。
黒い雲。
無数の航空機。
海面を走る魚雷の航跡。
そして、大和とは別の大型艦が炎に包まれている。
秋月は目を見開いた。
今度は大和ではなかった。
別の艦だ。
それが何を意味するのか。
秋月にはすぐ分かった。
戦艦であっても、航空攻撃から安全ではない。
むしろ航空機の集中攻撃を受ければ、巨大な艦ほど格好の目標になる。
映像が消える。
秋月は甲板の手すりを握った。
呼吸が乱れている。
「少尉!」
村上が駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか。」
「……はい。」
「顔色が悪い。」
「少し、風に当たりすぎたようです。」
村上は心配そうに秋月を見る。
だが、やはりそれ以上は聞かなかった。
秋月は空を見上げた。
味方機はすでに遠ざかっている。
だが、頭の中には別の光景が残っている。
炎に包まれる大型艦。
無数の航空機。
魚雷。
それは、これから始まる戦争の一部だ。
秋月は思った。
自分が守りたいのは大和だけではない。
この艦に乗る人間だけでもない。
できるなら、もっと多くの人間を生き残らせたい。
だが、そのためには知識が必要だ。
未来を知っているだけでは足りない。
敵がどんな攻撃をしてくるのか。
どんな状況で艦が危険になるのか。
今の大和に何が足りないのか。
それを一つずつ考えなければならない。
夕方、大和は予定された訓練を終えた。
柱島へ戻る航路へ入り、艦内では帰投準備が始まる。
秋月は最後の記録をまとめていた。
今日の訓練結果。
航空機への対応時間。
問題点。
改善点。
そして、今後必要となる訓練。
書き終えたところで、秋月は一番下へ新しい項目を書き加えた。
「航空機発見時の初動手順、再検討。」
ペンを置く。
それだけだった。
だが、秋月にはそれが小さな一歩に思えた。
未来を変えるという大きな言葉ではない。
今日より明日を少しだけ良くする。
その積み重ねが、いつか未来を変えるのかもしれない。
夜。
柱島の灯が遠くに見え始めた。
大和はゆっくりと泊地へ戻っていく。
秋月は艦橋からその灯を見つめていた。
だが、その時。
通信室から緊張した声が響いた。
新たな電報が届いたのだ。
内容を確認した士官の表情が変わる。
秋月はその様子を見て、胸の奥に嫌な予感を覚えた。
戦争は、また一歩動こうとしていた。
――続く。
あとがき
第29話「空からの警告」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、前話で見えた航空機への脅威を、単なる未来視で終わらせず、実際の訓練へ落とし込む回としました。秋月の行動はまだ小さなものですが、その小さな改善が少しずつ大和の運用へ影響を与え始めています。
そして今回、秋月は大和ではない大型艦が航空攻撃を受ける未来を見ました。
これまでよりも少しずつ未来視の範囲が広がり、秋月自身が知っている歴史だけでは判断できない場面も増えていきます。
歴史を知っているからこそ見えるものと、歴史を知っているからこそ見落としてしまうもの。その両方を意識しながら、ここから物語を進めていきます。
そして最後に届いた電報が、次の動きを生みます。
次回 第30話「届いた電報」




