第28話 海の異変
昭和十六年十二月二十六日
瀬戸内海
大和は予定された航路を進んでいた。柱島を離れてから数時間が経ち、艦内ではそれぞれの部署が長時間航海の記録を続けている。機関科は機関の状態を細かく確認し、航海科は針路と速力を記録する。通信科も命令の受信から伝達までの時間を測っていた。砲術科では、先ほど秋月が見た未来の光景が頭から離れないまま、通常の訓練が続けられていた。
秋月誠は記録用紙を確認しながら、艦橋から届く報告へ耳を傾けていた。大和の中で、昨日までとは明らかに違う動きが生まれている。各部署が互いの動きを意識し始めているのだ。まだ完璧とは言えない。それでも、訓練を繰り返すたびに報告は早くなり、命令の行き違いも減っていた。
「少尉。」
「はい。」
村上兵曹長が記録用紙を差し出した。
「先ほどの訓練分です。こちらへ記入を。」
秋月は受け取った紙へ目を落とした。数字が並んでいる。昨日より改善している項目もあれば、ほとんど変化していないものもある。
「ありがとうございます。」
「しかし、少尉。」
「はい。」
「先ほどから、何か気になっているようですが。」
秋月は一瞬、言葉に詰まった。
村上は海を見た。
「何か見えましたか。」
「……いえ。」
「そうですか。」
村上はそれ以上聞かなかった。
秋月は少しだけ驚いた。普通なら、もう少し問い詰めてもよさそうなものだ。
「聞かないんですか。」
「何をです。」
「何か見えたのか、と。」
村上は笑った。
「少尉が話したくなったら話せばいいでしょう。」
秋月は返事をしなかった。
未来のことなど話せるはずがない。もし話せば、すべてが変わってしまう。それどころか、自分自身が何者なのかを疑われる可能性もある。だから今まで、未来視について誰にも話していない。
しかし、今日見た光景は違った。これまでの未来視は、断片的なものが多かった。炎上する艦。飛行場。将官の背中。そして今回の航空機と魚雷。どれも単独では意味を判断できない。
だが、少しずつ共通するものが見えてきている。
航空機。
海上。
そして、艦艇への攻撃。
秋月は海へ目を向けた。
今は穏やかだ。波も高くない。空にも敵機の姿はない。
だが、未来では違う。
この穏やかな海が、戦場になる。
その時、艦橋から伝声管を通じて報告が入った。
『砲術科、準備せよ。』
秋月はすぐに気持ちを切り替えた。
「了解。」
次の訓練が始まる。
今回の想定は、航空機による攻撃だった。
秋月の胸が強く締め付けられる。
偶然なのか。
それとも、自分が未来を見たことによって訓練内容まで変わったのか。
考えている暇はなかった。
「対空戦闘用意!」
号令が響く。
砲術科の乗組員が一斉に動き始める。
大和には多数の対空火器が備えられている。だが、秋月は知っていた。航空機は、これからの戦争で大きな脅威になる。戦艦の巨大な主砲だけでは、空から迫る敵には対抗できない。
それならば。
今のうちに、できることがあるのではないか。
秋月は訓練の動きを見ながら考えた。
対空見張り。発見。報告。命令。各砲への伝達。そして射撃。
すべてが繋がっている。
「敵機、右舷前方!」
見張員の声が響く。
「距離、約一万!」
「方位確認!」
「了解!」
報告が次々と入る。
秋月は時計を見た。
発見から報告まで。
報告から各部署への伝達まで。
そして射撃準備まで。
昨日までと同じように、時間を記録する。
訓練が終わる。
秋月は記録用紙を確認した。
思ったより時間がかかっている。特に、最初の発見から各部署へ情報が伝わるまでに時間がある。
「村上兵曹長。」
「はい。」
「航空機を想定した場合、見張りから射撃までの時間も記録した方がいいと思います。」
「今回の結果を見て、ですか。」
「はい。」
村上は記録用紙を覗き込んだ。
「確かに、ここは少し時間がかかっていますな。」
「航空機は艦より速いです。」
「そうですね。」
「なら、見つけてから考えるのでは遅い。」
秋月は自分でも驚くほど強い口調になっていた。
村上が顔を見る。
「最初から決めておく必要があります。」
「どの報告を誰が受け、誰が伝えるのか。」
「そして、どこまでを見張員の判断で行っていいのか。」
村上はしばらく考えた。
「訓練計画へ入れてもらう価値はありそうですな。」
「お願いします。」
「分かりました。」
村上は記録用紙を持って、その場を離れた。
秋月は一人残った。
自分が知っている未来。
その中で、大和は航空機による攻撃と無縁ではない。
だからこそ、今から少しでも準備できることがあるなら、やるべきだ。
しかし、問題もある。
自分が未来を知っていることを理由に、何でも変えればいいわけではない。
今の日本海軍には今の事情がある。兵器も、人員も、訓練方法も、簡単には変えられない。
ならば、自分にできるのは何なのか。
秋月は考えた。
新しい兵器を要求することではない。
今あるものを、どう使うか。
訓練をどう変えるか。
それなら、まだ可能性がある。
その日の午後、艦長室へ訓練結果が届けられた。秋月も報告のため呼ばれていた。
艦長は記録用紙へ目を通す。
「航空機への対応時間か。」
「はい。」
秋月が答える。
「先ほどの訓練で、発見から射撃準備までの時間を測りました。」
「結果は?」
秋月は数字を示した。
「まだ改善の余地があります。」
艦長はしばらく紙を見つめた。
「なぜ、これを測ろうと思った。」
秋月は言葉を選んだ。
「航空機への対応は、時間が重要だと思ったからです。」
「砲撃戦とは違う。」
「はい。」
「目標が速い。」
「そのため、発見から命令、命令から射撃準備までを細かく確認しておく必要があると思います。」
艦長は黙っていた。
やがて、記録用紙を机へ置く。
「分かった。」
「明日から航空機を想定した訓練を増やす。」
秋月は顔を上げた。
「よろしいのですか。」
「必要だと思ったからだ。」
艦長は続けた。
「戦争が始まった以上、想定しておくべき相手は増えている。」
その言葉に、秋月は小さく頷いた。
自分が未来を知っていることを話したわけではない。
それでも、一つの提案が訓練を変えた。
ほんの小さな変化だ。
だが、それでいい。
大きな歴史を一気に変える必要はない。
一つの訓練を変える。
一つの判断を早くする。
一人でも多くの人間が生き残る可能性を増やす。
それを積み重ねる。
秋月はそう考えるようになっていた。
艦長室を出ると、夕方の風が吹いていた。大和はまだ航海を続けている。遠くの空は赤く染まり、海面には夕日の光が伸びていた。
秋月は甲板から海を見つめる。
今日一日だけでも、いくつものことが変わった。
訓練方法。
記録方法。
そして、自分自身の考え方。
未来を知っているから歴史を変えられる。
最初はそう思っていた。
だが、違うのかもしれない。
未来を知っているからこそ、今を見なければならない。
歴史に残された結果だけを見ていては、この時代にいる人間の気持ちは分からない。
今、目の前にいる乗組員たちは、まだ未来を知らない。
だからこそ、今日を生きている。
秋月は海へ視線を戻した。
その時だった。
遠くで、何かが光った。
秋月は目を細める。
水平線の近く。
夕日の反射だろうか。
そう思った瞬間、見張員の声が響いた。
「左舷前方、航空機!」
秋月が振り返る。
「一機!」
艦橋が動き始める。
「距離!」
「まだ遠い!」
「所属確認!」
秋月は空を見上げた。
小さな黒い点が見える。
航空機だ。
訓練ではない。
秋月の胸が強く鳴った。
「敵機か?」
艦橋から声が飛ぶ。
「確認します!」
見張員が双眼鏡を構える。
数秒。
長く感じられた。
やがて報告が入る。
「味方機と思われます!」
艦橋に安堵が広がった。
だが、秋月は空から目を離さなかった。
たった一機の航空機。それだけで、艦内の空気が一瞬にして変わった。
もし敵機だったら。
その問いが、誰の胸にも浮かんだはずだ。
秋月は思った。
今日の訓練は無駄ではなかった。
そして、まだ足りない。
もっと早く。
もっと正確に。
見つける。
伝える。
判断する。
撃つ。
それができなければならない。
大和は夕暮れの海を進んでいく。
空には、まだ一番星が見え始めたばかりだった。
だが秋月には、その空が以前とは違って見えた。
戦争は海だけで起きるのではない。
空からも来る。
その事実を、この艦にいる全員が少しずつ理解し始めていた。
そして秋月は知らなかった。
今日の航空機との遭遇が、翌日の訓練内容を大きく変えることになるとは。
――続く。
あとがき
第28話「海の異変」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、前話で秋月が見た「航空機と魚雷」の未来視をきっかけに、航空機への対応を訓練へ取り入れていく流れを描きました。
未来を知っている秋月だからこそ気付けることはあります。しかし、それをそのまま「未来ではこうなる」と伝えることはできません。
だからこそ、今ある情報と訓練の結果から、少しずつ現場を変えていく。この作品では、そうした小さな変化が積み重なって、やがて大きな歴史の分岐へつながっていく展開を描いていきます。
そして今回、訓練ではない実際の航空機との遭遇もありました。
大和の航海は、まだ始まったばかりです。
次回 第29話「空からの警告」




