第27話 外洋へ
昭和十六年十二月二十六日
柱島泊地
朝の艦内は、いつもより早く動き始めていた。昨日、司令部から示された長時間航海を含む訓練計画が正式に各部署へ伝えられたためだ。航海科では海図を広げて航路を確認し、機関科では長時間運転に備えた点検が続いている。通信科も訓練中の通信手順を改めて確認していた。
秋月誠が砲術科の区画へ入ると、村上兵曹長がすでに記録簿を手にしていた。
「少尉、おはようございます。」
「おはようございます。もう準備ですか。」
「ええ。昨日の話が、今朝になって正式に下りてきました。」
村上から書類を受け取る。そこには出航予定時刻、訓練海域、実施する訓練項目が簡潔に記されていた。
柱島周辺での訓練だけではない。長時間航行、艦隊運動を想定した針路変更、夜間航海、通信訓練、応急部署訓練。さらに各科の記録を統合し、航海中の艦全体の動きを確認することまで盛り込まれている。
秋月は書類を読み終えると、もう一度最初から目を通した。
昨日、司令部の参謀が言っていた。
大和がどこまでできる艦なのか。それを、これから見せてもらう。
その言葉が、ようやく形になり始めていた。
「かなり本格的ですね。」
「新造艦ですからな。まずは、どこまで使えるのかを知らなければならんのでしょう。」
村上の言葉に秋月は頷いた。
未来を知っている自分にとって、大和はすでに歴史上の存在だった。だが、今目の前にある大和は竣工して間もない。乗組員も艦そのものも、まだこの巨大な戦艦を完全には理解していない。
どれほどの速力を安定して維持できるのか。長時間の航海で機関にどのような負担がかかるのか。艦隊運動を行った時、各部署の連携にどんな問題が出るのか。
その一つ一つを、これから確かめていく。
秋月は記録簿を開いた。
昨日から始めた時間の記録も、今回の訓練では正式な項目として扱われることになっている。
「少尉。」
「はい。」
「昨日の記録方法ですが、今日から砲術科だけではなく、各部署でもやるそうです。」
「そう聞いています。」
「少尉の提案が、ずいぶん広がりましたな。」
秋月は少しだけ苦笑した。
「まだ試しているだけですよ。」
「試して、使えると分かれば残る。それで十分でしょう。」
村上は記録簿を閉じた。
その言葉に秋月は何も返さなかった。
自分が未来を変えるためにできることなど、もっと大きなものだと思っていた。
歴史上の重要人物に警告する。
大きな作戦を変える。
誰かを救う。
そんなことばかり考えていた。
だが、実際に今できたのは、訓練の時間を測ることだった。
それでも、その小さな変化が司令部へ届いた。
ならば、歴史を変えるというのは、こういうところから始まるのかもしれない。
その時、艦内放送が響いた。
『総員、出航準備。各科は所定の配置につけ。』
艦内の空気が一気に変わった。
甲板では係留関係の確認が始まり、各部署から準備完了の報告が上がっていく。秋月も砲術科の最終確認へ向かった。
弾薬関係の安全確認。装置の状態確認。伝声管の確認。記録用具の準備。どれも特別な作業ではない。
しかし、今日は一つ一つの意味が違っていた。
これまで大和は、訓練のために海へ出て、訓練が終われば泊地へ戻ってきた。
今日は違う。
長時間の航海そのものが訓練になる。
艦が動き続ける間、すべての部署が働き続けなければならない。
「砲術科、準備よし。」
秋月が報告すると、伝声管の向こうから返答があった。
『了解。』
続いて艦橋から各部署へ確認が飛ぶ。
航海科、異常なし。
機関科、準備よし。
通信科、準備完了。
応急部署、配置確認。
報告が一つずつ揃っていく。
秋月は時計を確認した。
昨日までなら、その時刻を記録するだけだった。
今日は違う。
出航から帰投までの時間も、各部署の動きも、すべてが記録になる。
やがて、艦橋から命令が響いた。
「出航用意!」
艦内に緊張が走る。
大和の巨大な船体が、ゆっくりと動き始めた。
柱島の景色が少しずつ後ろへ流れていく。
秋月は甲板へ出て、その光景を見つめた。
冬の瀬戸内海は穏やかだった。
島々の間を抜ける海は静かで、遠くには薄い雲が浮かんでいる。
それだけを見れば、戦争中であることさえ忘れてしまいそうだった。
だが、秋月は知っている。
海の向こうでは、すでに戦争が始まっている。
マレー半島では日本軍が進撃を続け、フィリピンでも戦闘が続いている。真珠湾攻撃からまだ三週間にも満たない。
その一方で、大和はまだ内海を進んでいる。
今はまだ、前線ではない。
だが、これから先、この艦がどこへ向かうのか。
その未来を秋月は知っていた。
ただし、以前とは違う。
自分がこの時代に来たことで、すでに歴史は少しずつ変わっている。
ならば、この先に待つ未来も同じとは限らない。
秋月は海へ視線を戻した。
大和は予定された航路を進んでいく。
しばらくして最初の訓練が始まった。
艦隊運動を想定した針路変更。
速力変更。
通信訓練。
砲術科の射撃準備。
それぞれの訓練が別々に行われるのではない。
一つの訓練中に、別の部署へ新たな命令が入る。
秋月は記録係とともに時計を確認していた。
『目標、右舷前方を想定。射撃準備開始。』
「受領。」
秋月が復唱する。
記録係が時刻を書き留める。
砲術科の乗組員が動き始めた。
同時に、艦橋から別の命令が入る。
『針路変更。右十度。』
航海科が動く。
機関科へ速力変更の指示が飛ぶ。
通信科では別の報告が始まる。
秋月は記録用紙へ目を落とした。
昨日までなら、砲術科の動きだけを見ていた。
今日は違う。
一つの命令が艦全体へ広がっていく。
それぞれの部署が別々に動いているようで、実際にはすべてがつながっている。
やがて砲術科から報告が入った。
『射撃準備完了。』
秋月は時刻を記録した。
開始からの経過時間。
命令変更の時刻。
各部署の報告時刻。
数字が並んでいく。
まだ何が正しいのかは分からない。
だが、数字にすれば比較できる。
昨日より速いのか。
どこで時間がかかったのか。
どの部署で情報が止まったのか。
それが見える。
訓練は続いた。
次に入ったのは応急部署との連携だった。
右舷前方で火災発生を想定。
応急班が動き、機関科が区画を確認する。
通信科が艦内へ伝達する。
砲術科も弾薬区画の安全確認を行う。
複数の部署が同時に動く。
昨日までなら、どこかで混乱が起きても不思議ではなかった。
だが今日は違った。
それぞれが昨日の訓練を覚えている。
命令が変わった時、何を止め、何を続けるのか。
その判断が少しずつ速くなっていた。
「昨日より、かなり良くなっています。」
秋月が言う。
「ええ。」
村上が答える。
「人間は、やれば覚えるものです。」
秋月は小さく笑った。
その直後だった。
艦橋から見張員の声が響いた。
「右舷前方、船影!」
秋月が顔を上げる。
訓練海域とはいえ、海上には訓練参加艦以外の船もいる。
見張員が双眼鏡を構えた。
「距離は?」
「まだ遠く、判別できません!」
艦橋の空気が変わった。
訓練ではない。
現実の海で、実際に船が動いている。
秋月も海面へ目を向けた。
遠くに小さな船影がある。
その姿は、波間に見え隠れしていた。
数分後、報告が入る。
「漁船と思われます!」
艦橋の緊張がわずかに緩んだ。
秋月も息を吐く。
しかし、村上は船影を見つめたままだった。
「訓練だからといって、海まで訓練になるわけじゃありませんな。」
「そうですね。」
秋月は頷いた。
未来を知っている。
だからこそ、現実を軽く見てはいけない。
歴史に残る大事件だけが未来を変えるわけではない。
目の前の小さな判断も、積み重なれば大きな違いになる。
大和はその後も航行を続けた。
柱島はすでに遠い。
前方には広い海が開けている。
秋月は記録用紙へ目を落とした。
まだ訓練は続いている。
これから夜間航海もある。
長時間の航行で、機関や通信にどんな問題が出るのかも分からない。
だが、その先には一つの可能性がある。
この航海を通じて、大和という艦をもっと深く知ることができる。
そして、それは未来を変えるための材料になる。
秋月は水平線を見つめた。
その瞬間だった。
視界が揺らいだ。
穏やかな海が消える。
灰色の空。
荒れた海。
遠くに並ぶ艦影。
その上空を飛ぶ航空機。
そして、海面へ向かって落ちていく黒い影。
魚雷。
秋月は息を呑んだ。
次の瞬間、視界は元へ戻った。
目の前には、冬の穏やかな海がある。
大和も変わらず航行している。
秋月はしばらく動けなかった。
今までの未来視とは違う。
今回は、海上での戦闘だった。
航空機。
艦艇。
魚雷。
その組み合わせが意味するものを、秋月は知っている。
航空機による攻撃。
それは、この戦争でこれから何度も繰り返される。
そして大和も、その脅威から逃れることはできない。
秋月は拳を握った。
「……今度は、見逃さない。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
未来は変えられるかもしれない。
ならば、未来視で見たものをただ恐れるのではなく、今できることへ変えていく。
そのためには、もっと知る必要がある。
大和を。
乗組員を。
敵を。
そして、これから起こる戦争そのものを。
大和は進み続けていた。
その先には、まだ誰も知らない未来が待っている。
秋月は海から目を離さなかった。
これまでなら、未来を知っていることが自分の武器だと思っていた。
だが違う。
未来は、知った瞬間に確定するものではない。
今この瞬間の選択によって、いくらでも形を変える。
そのことを、秋月は少しずつ理解し始めていた。
大和の艦橋から、新たな命令が響く。
訓練はまだ終わっていない。
そして、この航海も始まったばかりだった。
あとがき
第27話「外洋へ」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、大和が柱島での訓練から一歩進み、長時間航海を含む訓練へ入るところを描きました。新造艦である大和にとって、実際に長く海上を走り続けることは、艦そのものを知るための重要な過程です。
そして秋月は、今回も未来の一端を目にしました。
これまでの未来視とは少し違い、今回は航空機と魚雷という、これからの戦争を考えるうえで重要な光景です。秋月がその未来をどう受け止め、どのように現在の行動へつなげていくのか。
ここから、物語は少しずつ「歴史を知っているだけではなく、歴史へ介入する」段階へ進んでいきます。
次回 第28話「海の異変」




