第23話 柱島の命令
昭和十六年十二月二十三日
柱島泊地
朝靄が、海面を低く覆っていた。
大和の艦橋から見える景色は白く霞み、島影さえ輪郭を失っている。
夜明け前から降りていた霧は、日の出とともに少しずつ薄くなっていた。
秋月誠は艦橋脇の通路に立ち、双眼鏡を手に海を見つめていた。
昨日までとは違う。
そう感じた。
何かが変わったわけではない。
大和は予定どおり柱島へ回航され、警泊しながら訓練を続けている。
艦内もいつもと変わらない。
それなのに、朝から妙に落ち着かなかった。
「少尉。」
声を掛けられて振り返る。
村上兵曹長だった。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
村上は秋月の隣へ並び、海を見る。
「霧が晴れるまで、もう少しかかりそうですな。」
「そうですね。」
短い会話だった。
だが、その直後だった。
艦橋から伝令が下りてくる。
「村上兵曹長。」
「はい。」
「砲術科士官は、艦長室へ集合とのことです。」
村上の表情が変わった。
「艦長室?」
「はい。至急とのことです。」
秋月も思わず顔を見合わせる。
通常の訓練であれば、砲術科の責任者だけを急に艦長室へ呼ぶ必要はない。
村上は秋月へ視線を向けた。
「少尉も来てください。」
「私もですか。」
「呼ばれていなくても、行った方がよさそうです。」
二人は艦長室へ向かった。
廊下を歩く間、村上は何も話さなかった。
ただ、いつもより歩く速度が速い。
艦長室の前には、すでに数名の士官が集まっていた。
扉が開く。
「入れ。」
短い声が飛んだ。
中へ入ると、艦長の前に一枚の書類が置かれていた。
その横には海図が広げられている。
秋月は一目見て息を止めた。
瀬戸内海周辺の海図だった。
だが、その上にはこれまでの訓練海域とは別の場所に赤鉛筆で印が付けられている。
「今朝、司令部から電報が届いた。」
艦長が言った。
室内の空気が変わる。
「内容は?」
砲術長が尋ねる。
艦長は書類へ目を落とした。
「大和の今後の訓練計画について、変更が入った。」
秋月は思わず海図を見る。
「変更……ですか。」
艦長が頷く。
「これまでの慣熟訓練に加え、艦隊運動を想定した訓練を増やす。」
誰も口を挟まない。
それだけなら、さほど珍しい命令ではない。
しかし、艦長は続けた。
「砲術だけではない。」
「通信、航海、機関、応急部署。」
「各科を横断した総合訓練を行う。」
村上が海図へ目を向けた。
「まるで実戦を想定した訓練ですな。」
艦長は答えなかった。
代わりに、海図の一点を指で示す。
「さらに、司令部からこの海域での訓練を指定されている。」
秋月は地図を見る。
その場所を、未来の記憶から探そうとした。
何か引っ掛かる。
だが、思い出せない。
「少尉。」
村上の声で我に返る。
「はい。」
「どうしました。」
「……いえ。」
秋月は首を振った。
未来を知っている。
そう思っていた。
だが、すべてを知っているわけではない。
歴史の教科書に載っていたのは、結果だけだ。
その途中で何が起きたのか。
誰がどんな命令を受けたのか。
どんな訓練をしていたのか。
そこまでは知らない。
艦長が言った。
「この訓練は、ただの慣熟ではない。」
室内の士官たちへ視線を向ける。
「大和を一隻の戦艦としてではなく、艦隊の中核として運用するための訓練だ。」
秋月の胸が跳ねた。
艦隊の中核。
その言葉は、これまで何度も聞いてきた。
だが、今日の響きは違った。
艦長は書類を閉じる。
「明日からではない。」
「今日から始める。」
「各科は午後までに訓練計画をまとめろ。」
「以上だ。」
士官たちが一斉に敬礼する。
秋月も敬礼した。
艦長室を出ると、廊下へ冷たい空気が流れてきた。
村上が歩きながら呟く。
「急に忙しくなりそうですな。」
「そうですね。」
「ですが、少尉。」
村上が足を止める。
「一つだけ覚えておいてください。」
秋月も止まる。
「何でしょう。」
「命令が変わったということは、誰かが何かを見ているということです。」
秋月は黙った。
「海軍は理由もなく訓練計画を変えません。」
「特に、この時期ならなおさらです。」
村上はそう言って、砲術科の方へ歩き出した。
秋月はその背中を見送った。
胸の奥に、嫌な感覚が残っている。
南方では戦争が始まった。
日本軍は各地で攻勢を続けている。
その一方で、日本海軍の中枢では、まだ次の戦いを見据えている。
そして今。
大和にも、その準備の一端が届き始めた。
秋月は甲板へ出た。
霧はほとんど晴れていた。
柱島の島影が、はっきりと見える。
その向こうには、瀬戸内海の穏やかな海が広がっていた。
昨日までと同じ海。
同じ艦。
同じ人々。
なのに、何かが動き始めている。
秋月は海図の上で見た赤い印を思い出していた。
――あの場所は、何なのか。
そして。
なぜ今、大和にその訓練が必要なのか。
答えはまだ分からない。
だが、これまでのようにただ待っているだけではいけない。
秋月は艦橋を見上げた。
大和の巨大な艦橋が、冬の空へ突き出している。
その姿は、これから始まる何かを待っているようにも見えた。
「……今度は、こっちから動く。」
小さく呟く。
未来を知っているだけでは何も変わらない。
ならば、自分の知っている未来と、今ここにある現実を繋げる。
そのために必要なことを探す。
秋月は踵を返した。
午後から始まる新たな訓練へ向かうために。
柱島の静かな海に、午前の霧はもう残っていなかった。
だが、その海の向こうでは。
歴史が、少しずつ形を変え始めていた。
――続く。
あとがき
第23話までお読みいただき、ありがとうございました。
ここから物語を少しずつ動かしていきます。
これまでの話では、大和という艦と、その中で暮らす人々を中心に描いてきました。今回はそこから一歩進み、「なぜ大和に新しい訓練が必要なのか」という疑問を置きました。
史実では、この時期の大和は竣工したばかりで、柱島を拠点に訓練を重ねていく段階でした。本作ではそこを土台にしながら、秋月の存在によって少しずつ歴史が変化していきます。
大きな出来事をいきなり変えるのではなく、小さな違和感から歴史がずれていく。
その変化を、これから丁寧に描いていきます。
次回 第24話「総合訓練」




