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戦艦大和は、歴史を書き換えられるか。 ~未来を知る帝国海軍士官の決断~  作者: 春野ケイ


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第14話 就役前夜

昭和十六年十二月十五日


広島県 呉海軍工廠


 夜明け前の呉湾は、雲ひとつない冬空の下で静かに眠っていた。


 東の空がわずかに白み始める頃、工廠の門が開く。


 夜勤を終えた工員たちと、朝の勤務に就く者たちが入れ替わる。


 誰もが少し疲れた顔をしていた。


 それでも歩みは止まらない。


 明日、十二月十六日。


 戦艦大和は、いよいよ帝国海軍の艦として正式に就役する。


 数年に及ぶ建造と艤装。


 その最後の一日が始まろうとしていた。


 秋月誠は制服の襟を正しながら岸壁を歩く。


 冬の朝は冷え込みが厳しい。


 吐く息は白く、革靴の音だけが静かな岸壁へ響いていた。


 巨大な艦影が朝靄の向こうに浮かび上がる。


 戦艦大和。


 昨日まで何度も見上げてきたその姿が、今日はどこか違って見えた。


 「おはようございます。」


 聞き慣れた声がした。


 兵曹長だった。


「おはよう。」


「いよいよですね。」


「ああ。」


 二人は並んで歩きながら、大和を見上げる。


「長かったような、短かったような。」


 兵曹長は少し笑った。


「最初は艦内で迷ってばかりでした。」


「私もだ。」


 秋月も思わず笑う。


 就役前の訓練が始まった頃は、どの通路も同じように見えた。


 今では暗い艦内でも迷うことはない。


 人は少しずつ、この巨大な艦の一部になっていく。


 午前の作業は、就役式へ向けた最終確認だった。


 砲術科では砲塔内の清掃と機器の点検。


 艦橋では通信設備の確認。


 甲板では手すりや係留設備の最終点検が行われている。


 工廠技師たちも、それぞれ最後の仕事に追われていた。


「少尉殿。」


 以前から顔見知りになった年配の技師が声を掛けてくる。


 手には油で黒くなった布が握られていた。


「今日で、私らの仕事も一区切りです。」


 そう言って、大和の舷側へ手を当てる。


「少し寂しい気もします。」


 秋月も同じように鋼板へ触れた。


 冷たい。


 だが、その冷たさの向こうに、何年もの歳月を感じる。


「皆さんのおかげで、この艦は海へ出られます。」


 技師は首を横に振った。


「いや。」


「海へ出たら、あとは海軍さんの仕事です。」


「どうか、大事に乗ってください。」


 秋月は深く頭を下げた。


「必ず。」


 その一言だけを返した。


 昼前になると、工廠全体がいつも以上に慌ただしくなった。


 就役式へ向けた準備が進み、来賓を迎えるための確認も行われる。


 旗の位置。


 整列位置。


 儀礼動作。


 一つひとつを確かめる士官たちの表情は真剣だった。


 その様子を見ていた若い水兵が、小さな声で話しかけてきた。


「少尉。」


「何だ。」


「明日から、本当に大和の乗組員になるんですね。」


 その声には、期待と緊張が入り混じっていた。


 秋月は少しだけ考え、穏やかに答える。


「今日までも乗組員だ。」


「ただ、明日からはこの艦も正式に帝国海軍の一員になる。」


 水兵は大きく頷いた。


「はい。」


 その返事は、どこか誇らしげだった。


 午後、秋月は一人で艦首へ向かう。


 呉湾には冬の柔らかな陽射しが降り注ぎ、穏やかな波が艦首へ静かに寄せていた。


 港の景色は変わらない。


 それでも、この穏やかな時間は明日を境に少しずつ姿を変えていくのだろう。


 秋月は帽子を押さえ、静かに海を見つめ続けた。


午後の点検が終わると、艦内にはどこか安堵した空気が流れていた。


 もちろん、作業が終わったわけではない。


 むしろ最後だからこそ、一つひとつを見直す。


 それが工廠で働く者たちの流儀だった。


 秋月は兵曹長とともに第二砲塔から艦尾へ向かう。


 通路では電気技師が配線を確認し、機関科の兵たちが最後の試験運転について話し合っていた。


「皆、表情が違いますね。」


 秋月が小さく呟くと、兵曹長は歩みを緩めた。


「完成が見えてきたからでしょう。」


「嬉しい気持ちもありますが、それ以上に『ようやく送り出せる』という思いが強いんですよ。」


 その言葉どおりだった。


 工員たちの顔には疲れが残っている。


 しかし、その目には確かな達成感が宿っていた。


 艦尾近くでは、一人の若い工員が甲板を丁寧に磨いていた。


 誰に命じられたわけでもない。


 雑巾を絞り、黙々と床板を磨いている。


 秋月は足を止めた。


「もう十分きれいですよ。」


 工員は照れくさそうに笑う。


「そうなんですけど。」


「明日、最初に乗る人が『きれいな艦だ』って思ってくれたら嬉しいじゃないですか。」


 秋月は思わず言葉を失った。


 戦艦の性能でも、兵装でもない。


 最初に乗る人の気持ちを考えて甲板を磨く。


 その仕事ぶりに、大和という艦がどれほど多くの人の思いで支えられてきたのかを改めて感じた。


「ありがとう。」


 秋月は自然と頭を下げていた。


 工員は慌てて手を振る。


「やめてください、少尉殿。」


「こちらこそ、この艦をよろしくお願いします。」


 二人は笑顔で敬礼を交わした。


 夕方。


 作業終了を知らせる汽笛が鳴る。


 岸壁では昼勤の工員たちが帰り支度を始め、夜勤の者たちが静かに持ち場へ向かっていく。


 その流れを見つめながら、秋月は大和を振り返った。


 巨大な艦体は夕焼けに照らされ、黒いシルエットとなって呉湾へ浮かんでいる。


 その姿は、数日前よりもどこか堂々として見えた。


 艦が変わったのではない。


 自分の見方が変わったのだ。


 兵学校を卒業したばかりの若い少尉だった自分も、この数週間で少しだけ成長できた気がする。


 艦のこと。


 仲間のこと。


 工廠で働く人々のこと。


 知らなかったことを、少しずつ学んできた。


 宿舎へ戻る途中、兵曹長が空を見上げた。


「明日は晴れそうですね。」


 秋月も立ち止まり、冬の空を見上げる。


 雲ひとつない夜空には、無数の星が瞬いていた。


「ああ。」


「いい就役式になりそうだ。」


 それ以上、二人は何も話さなかった。


 静かな帰り道だった。


 遠くから工廠の機械音が微かに聞こえてくる。


 今日も誰かが、この港を支えている。


 明日、この艦は正式に帝国海軍の戦艦となる。


 秋月は宿舎の前で一度だけ振り返った。


 夜の闇の中、大和は静かにその巨体を横たえている。


 その姿は、まるで夜明けを待つ山のようだった。


 秋月は帽子へそっと手を添え、小さく一礼する。


 明日から始まる新しい日々を思いながら、ゆっくりと宿舎の扉を開けた。


 ――続く。


あとがき


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は「就役前夜」という節目を描きました。戦艦大和というと壮大な兵器という印象が強いですが、その完成までには、工員や技師、乗組員など、本当に多くの人々の努力が積み重ねられていました。そんな「名もなき人々」の姿も、この作品では大切に描いていきたいと思っています。


本作は史実への敬意を第一に、当時の時代背景や人々の暮らし、海軍の日常も丁寧に調べながら執筆しています。


面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると、とても励みになります。


次回はいよいよ、戦艦大和の就役です。史実を大切にしながら、その一日を一つひとつ丁寧に描いていきます。


次回 第15話「戦艦大和、就役」

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