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戦艦大和は、歴史を書き換えられるか。 ~未来を知る帝国海軍士官の決断~  作者: 春野ケイ


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第11話 戦果と沈黙

昭和十六年十二月九日


広島県 呉海軍工廠


 夜明け前の呉軍港は、前日とは違う空気に包まれていた。


 冬の冷気は変わらない。


 海面を渡る潮風も変わらない。


 それでも、人々の表情だけが確かに変わっていた。


 午前六時。


 工廠の汽笛が鳴ると同時に、工員たちは持ち場へ散っていく。


 戦艦大和の甲板では、乗組員たちが朝礼のため整列していた。


 秋月誠も列の中に立つ。


 砲術長は全員を見渡し、いつもよりゆっくりと言葉を選んだ。


「昨日、大本営より開戦が発表された。」


 一瞬、全員の背筋がさらに伸びる。


「だが、我々の任務は変わらん。」


 静かな声だった。


「大和を完成させること。それが今の使命だ。」


「はっ!」


 返答は力強かった。


 誰も浮かれてはいない。


 しかし、その声には昨日までとは違う張りがあった。


 朝礼後、秋月は兵曹長とともに第二砲塔の点検へ向かう。


 砲塔内は機械油の匂いが満ち、鋼鉄の壁は冬の冷気をそのまま閉じ込めたように冷たい。


「油圧計、正常。」


「旋回装置、異常なし。」


「伝声管、通話良好。」


 一つひとつの確認を終えるたび、兵曹長が点検簿へ印を付けていく。


「少尉。」


 兵曹長は油で黒くなった手袋を外しながら言った。


「戦争が始まっても、やることは昨日と変わりませんな。」


 秋月は点検簿から顔を上げる。


「そうですね。」


「少し意外でしたか。」


「正直に言えば。」


 兵曹長は笑った。


「戦争ってのは、始まったからといって急に全部が変わるもんじゃありません。」


「目の前の仕事を続ける者がいて、初めて前線も戦える。」


 その言葉を聞きながら、秋月は工廠の岸壁へ目を向けた。


 貨車から降ろされる資材。


 忙しく走る運搬車。


 図面を抱えて歩く技師。


 誰も立ち止まらない。


 昨日開戦したとは思えないほど、日常は静かに続いていた。


 その日常を支えている人々がいる。


 未来の記憶では、戦果や沈没ばかりが心へ残っていた。


 だが今、秋月の目の前にあるのは、それとはまったく違う景色だった。


 昼前。


 工廠の一角で短い休憩を取っていると、一人の年配技師が新聞を抱えて歩いてきた。


「出ましたぞ。」


 新聞を広げると、周囲にいた工員や兵たちが自然と集まる。


 紙面には、昨日の戦いについての記事が大きく載っていた。


 ただし、内容はまだ限られている。


 詳しい被害や戦果は書かれていない。


「正式発表はこれからでしょうな。」


 年配技師が新聞を丁寧に畳む。


「戦争は始まりましたが、私らの仕事は変わりません。」


 そう言って、大和を見上げた。


「この艦を送り出すまでが、わしらの務めです。」


 秋月は静かに頷いた。


 工員たちの言葉には派手さはない。


 しかし、その一言一言に誇りがあった。


 午後。


 艦内では応急工作班との合同訓練が続いていた。


 火災発生を想定した消火訓練。


 消火栓から勢いよく放たれる水。


 号令に合わせて走る乗組員。


 濡れた甲板が冬の日差しを反射して眩しく光る。


 秋月も消火ホースを担ぎながら走る。


 息は上がる。


 腕も重い。


 それでも足を止める者はいない。


 その時、不意に視界の奥が揺らいだ。


 遠くで聞こえる航空機のエンジン音。


 海を埋め尽くす黒煙。


 炎に包まれた巨大な戦艦。


 しかし、その映像は一瞬で消えた。


 残ったのは、焦げた鉄の匂いだけだった。


 秋月は立ち止まらない。


 今は訓練中だ。


 目の前の任務を終えることが先だった。


 未来は逃げない。


 そう自分へ言い聞かせながら、再び仲間たちの後を追った。


午後の訓練を終える頃には、冬の陽はすでに西へ傾き始めていた。


 秋月は濡れた軍手を外し、水道で手を洗う。


 冷たい水が油で汚れた指先を流れ落ちる。


「少尉。」


 振り向くと、主計科の士官が木箱を指差した。


「食料品の受領確認をお願いします。」


「分かりました。」


 木箱には乾パンや缶詰、調味料などが丁寧に梱包されている。


 帳簿と照らし合わせ、一つずつ数量を確認する。


 派手さはない。


 だが、これも艦を動かすために欠かせない仕事だった。


 確認を終えた秋月は、岸壁へ視線を向ける。


 そこでは工員たちが最後の艤装工事を進めていた。


 電気技師が配線を確認し、溶接工が火花を散らし、塗装工が黙々と刷毛を動かす。


 戦争が始まっても、彼らの一日は昨日と変わらない。


 いや、昨日以上に忙しくなっているようにも見えた。


「この艦は、必ず送り出します。」


 近くで工具を片付けていた若い工員が、誰に言うでもなく呟いた。


 年齢は秋月とそう変わらないだろう。


 その横顔には疲労がにじんでいたが、不思議と暗さはなかった。


 秋月は帽子を軽く取る。


「よろしくお願いします。」


 工員は少し驚いたように笑い返した。


「こちらこそ、お願いします。」


 その短い言葉だけで十分だった。


 互いの立場は違う。


 だが、大和を完成させたいという思いは同じだった。


 夕方。


 工廠の事務所前へ人だかりができていた。


 新しい掲示が貼り出されたのである。


 秋月も人波の後ろから静かに目を向ける。


 大本営発表。


 海軍航空部隊による作戦成功。


 敵戦艦への攻撃。


 航空機や飛行場への打撃。


 限られた内容ではあったが、開戦初日の戦果が公式に伝えられていた。


 周囲から安堵の声が漏れる。


「やったな。」


「やはり海軍は強い。」


「これで早く戦争も終わる。」


 誰かがそう言った。


 秋月は掲示から目を離せなかった。


 文字は読める。


 意味も分かる。


 それでも胸の奥は重いままだった。


 未来で見た景色は、この先に続いている。


 今ここで喜ぶ人々の表情も、決して嘘ではない。


 だからこそ、秋月は何も言えなかった。


 宿舎へ戻ると、部屋の机に向かう。


 『未来の記録』を開き、新しい頁へ筆を置く。


 しばらく考えたあと、ゆっくりと書き始めた。


『昭和十六年十二月九日』


『大本営発表』


『真珠湾攻撃の戦果公表』


 筆が止まる。


 それ以上は書かなかった。


 いや、書けなかった。


 未来で知っていること。


 今日、自分が実際に見聞きしたこと。


 その境界を曖昧にしたくなかった。


 秋月は筆を置き、静かにノートを閉じる。


 窓の外では、大和の艦影が夜の軍港へ溶け込んでいた。


 工廠の灯火は、まだ消えていない。


 夜勤の工員たちは、今も艦内のどこかで工具を握っている。


 秋月は窓を開け、冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 潮の香りに混じって、かすかに油と鉄の匂いが漂ってくる。


 この匂いも、この静けさも、この港で働く人々の姿も。


 いつか失われるかもしれない。


 だからこそ、忘れてはならない。


 秋月は夜の大和へ向かって静かに一礼した。


 その姿を見つめる巨艦は、何も語らない。


 しかし、その沈黙はどんな言葉よりも重く、秋月の胸に刻まれていった。


 ――続く。


あとがき


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、開戦翌日の「後方の一日」を描きました。華々しい戦果の裏側では、工廠や基地で黙々と任務を続ける多くの人々がいました。そうした一人ひとりの積み重ねが、当時の海軍を支えていたことも、この作品では大切に描いていきたいと思っています。


本作は史実への敬意を第一に、史実と創作の境界を丁寧に見極めながら物語を紡いでいます。これからも人物たちの息遣いや、その時代の空気を感じていただける作品を目指します。


面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると大きな励みになります。


次回 第12話「静かなる巨艦」

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