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戦艦大和は、歴史を書き換えられるか。 ~未来を知る帝国海軍士官の決断~  作者: 春野ケイ


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第10話 十二月八日 開戦

昭和十六年十二月八日


広島県 呉海軍工廠


 未明。


 まだ夜の色を残した呉軍港は、張り詰めた静寂に包まれていた。


 冬の冷気が港全体を覆い、吐く息は白く夜空へ消えていく。


 岸壁へ係留された戦艦大和は、闇の中に巨大な艦影を横たえたまま静かに眠っていた。


 正式就役までは、あと八日。


 工廠では夜を徹した作業が続き、探照灯に照らされた工員たちが最後の調整に追われている。


 午前六時過ぎ。


 秋月誠は宿舎の廊下を足早に歩いていた。


 昨夜はほとんど眠ることができなかった。


 何度も同じ夢を見たからだ。


 灰色の海。


 朝焼けの空。


 低空を飛ぶ艦上攻撃機。


 そして、海軍基地へ向かって伸びる一本の魚雷航跡。


 夢から覚めても、その光景だけは頭から離れなかった。


 食堂へ入ると、普段よりも会話が少ないことに気付く。


 皆、新聞を読んだり、静かに朝食を口へ運んだりしている。


 外交交渉が難航していることは、すでに誰もが知っていた。


「少尉、おはようございます。」


 砲術科の兵曹長が席を立つ。


「おはよう。」


 秋月は向かいへ腰を下ろした。


 麦飯と味噌汁、漬物という簡素な朝食。


 誰も冗談を言わない。


 理由は分からない。


 しかし、皆が何かを感じ取っているようだった。


 食事を終え、秋月が大和へ向かおうとした、その時だった。


 工廠内へ短く鋭いサイレンが鳴り響く。


 続いて、伝令兵が全力で駆け抜けていく。


「各員、持ち場へ急げ!」


 普段とは違う空気だった。


 工員も海軍将兵も、一斉に動き始める。


 秋月も駆け足で大和へ向かった。


 甲板へ上がると、砲術長が厳しい表情で待っていた。


「全員、配置につけ!」


 怒号ではない。


 しかし、有無を言わせぬ声だった。


 砲術科員たちは一斉に持ち場へ散っていく。


 艦内電話の確認。


 砲塔内の安全点検。


 非常配置の再確認。


 まだ就役前である以上、大和がただちに出撃することはない。


 それでも、工廠全体が緊急態勢へ移っていることは明らかだった。


 秋月は砲術長へ尋ねる。


「何があったのでしょうか。」


「まだ正式な発表はない。」


 砲術長は短く答える。


「だが、すぐに分かる。」


 その一言だけだった。


 午前七時を過ぎた頃、工廠内の放送設備へ人が集まり始める。


 将校も工員も、皆が放送室の方向を見つめていた。


 やがて雑音が流れ、落ち着いた声が響く。


『――大本営海軍報道部、発表。』


 その瞬間、秋月の胸が大きく脈打った。


 耳鳴りがする。


 視界が揺れる。


 そして、あの映像が現実と重なった。


 朝焼け。


 艦上攻撃機。


 真珠湾。


 爆発。


 黒煙。


 停泊する戦艦。


 魚雷が海面を一直線に走る。


 爆弾が甲板へ突き刺さる。


 爆音とともに立ち上る巨大な水柱。


 映像が消える。


 同時に、放送の声が工廠中へ響き渡った。


『帝国海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。』


 誰一人、言葉を発しなかった。


 ただ、静寂だけが流れる。


 秋月はゆっくりと目を閉じる。


 未来で何度も見た「十二月八日」が、ついに現実となった。


 歴史は、予定どおり動き始めた。


 そして、自分はまだ何一つ変えられていない。


 拳を強く握り締める。


 だが、その心の奥では別の感情が芽生えていた。


 ――ここからだ。


 未来を知る意味があるのなら、本当の戦いは今から始まる。


 秋月は静かに顔を上げた。


 目の前には、まだ一度も戦火をくぐっていない戦艦大和が、冬の朝日に照らされていた。


放送が終わっても、誰一人として声を上げなかった。


 冬の風だけが甲板を吹き抜ける。


 やがて砲術長が帽子の鍔を軽く押さえ、静かに命じた。


「各員、持ち場へ戻れ。」


「はっ。」


 短い返答が重なり、止まっていた時間が再び動き出す。


 工員は工具を手に取り、乗組員はそれぞれの部署へ散っていく。


 誰も浮き足立ってはいない。


 むしろ普段以上に無駄な動きがなかった。


 秋月も砲術科区画へ戻る。


 主砲塔では、兵曹たちが何事もなかったかのように点検を続けていた。


「伝声管、異常なし。」


「揚弾装置、異常ありません。」


「旋回装置、点検終了。」


 一つひとつの報告が積み重なる。


 就役前の大和に今できることは限られている。


 だからこそ、この艦を一日でも早く完成させることが、自分たちの戦いだった。


「少尉。」


 兵曹長が工具箱を閉じながら声を掛ける。


「とうとう始まりましたな。」


「ああ。」


 秋月は短く答えた。


 兵曹長は主砲塔を見上げ、小さく笑う。


「海軍は負けませんよ。」


「この戦争も、きっと長くは続かんでしょう。」


 周囲にいた下士官たちも静かに頷いた。


 その表情に悲壮感はない。


 祖国の勝利を疑っていない者の顔だった。


 秋月は返事ができなかった。


 目の前の兵曹長は家族へ宛てた手紙を書いていた。


 昨日、「娘が来年小学校へ上がるんです」と嬉しそうに話していたことを思い出す。


 その笑顔を知っているからこそ、胸が苦しくなる。


 未来を知る自分だけが、この人たちの「この先」を想像してしまう。


「少尉?」


 兵曹長が不思議そうに首を傾げた。


「あ……いや。」


 秋月は慌てて笑みを作る。


「必ず勝たねばなりませんね。」


「もちろんです。」


 兵曹長は力強く頷いた。


 その言葉を聞きながら、秋月は心の中で静かに呟く。


(だからこそ……救える命は救いたい。)


 午後になると、工廠には断片的な情報が入り始めた。


「ハワイ方面で大戦果らしい。」


「敵戦艦を何隻もやったそうだ。」


「空母部隊の活躍だとか。」


 噂は瞬く間に広がる。


 しかし、砲術長は腕を組んだまま一言だけ告げた。


「正式発表まで口外するな。」


「噂は噂だ。」


「命令と報告だけを信じろ。」


「はっ!」


 その一言で、その場は静まり返る。


 秋月は改めて、この人が現場を預かる士官である理由を理解した。


 冷静さを失わない。


 それが指揮官に最も必要な資質なのだ。


 夕方。


 作業終了の汽笛が軍港へ響いた。


 空は茜色に染まり、海面には長く夕陽が伸びている。


 岸壁では昼勤の工員と夜勤の工員が入れ替わり、工具箱を抱えた男たちが静かに歩いていた。


 秋月はその姿を見送りながら、帽子を取り、小さく頭を下げた。


 この人たちが造る艦に、自分たちは命を預ける。


 その事実を忘れてはならない。


 宿舎へ戻ると、机の上の『未来の記録』を開く。


 白い紙を前にすると、不思議と心が落ち着いた。


 筆を取り、ゆっくりと文字を書く。


『昭和十六年十二月八日』


 一度、筆が止まる。


 深く息を吸い、続けた。


『対米英開戦』


 書き終えた文字を、しばらく見つめる。


 インクはまだ乾いていない。


 窓の外では、夜の呉軍港に灯がともり始めていた。


 遠くには、大和の艦影が静かに浮かんでいる。


 秋月はノートを閉じ、窓辺へ歩いた。


 月明かりに照らされた巨艦は、何も語らない。


 それでも、その沈黙の中に何かを問い掛けられているような気がした。


「……俺は。」


 言葉はそこで途切れる。


 答えは、まだ見つかっていない。


 だが、一つだけ決めたことがある。


 目の前にいる人を見捨てないこと。


 そのために、未来を知った理由を探し続けること。


 秋月は静かに敬礼した。


 冬の夜風が頬を撫でる。


 呉の夜は、どこまでも静かだった。


 ――続く。


あとがき


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、開戦そのものよりも、「その知らせを受けた呉海軍工廠の空気」を描くことを意識しました。同じ十二月八日でも、最前線と後方では見える景色が違います。その違いも、この作品で大切にしていきたい部分です。


本作は史実への敬意を第一に、実在した方々の歩みを土台として「もしも」の可能性を描いています。これからも、一つひとつの出来事を丁寧に積み重ねていきます。


面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると、とても励みになります。


次回 第11話「戦果と沈黙」

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