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戦艦大和は、歴史を書き換えられるか。 ~未来を知る帝国海軍士官の決断~  作者: 春野ケイ


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第9話 運命の真珠湾

昭和十六年十一月三十日


広島県 呉海軍工廠


 十一月最後の朝。


 夜明け前の呉軍港には薄い霧が立ち込め、岸壁へ係留された艦艇の姿はぼんやりと霞んでいた。


 午前六時。


 軍港に響いた汽笛を合図に、工廠は一斉に動き始める。


 大型クレーンが軋む音。


 貨車が資材を運ぶ音。


 鋼板を打つ槌の音。


 そのすべてが重なり合い、一つの巨大な工場が目を覚ましていく。


 秋月誠は吐く息を白くしながら、大和へ続く岸壁を歩いていた。


 就役まで残り十六日。


 艤装工事は最終段階に入り、艦内では細かな調整や試験が繰り返されている。


 軍人だけではない。


 工員、技師、主計科、衛生員。


 数え切れない人々が、それぞれの持ち場で大和を完成へ導いていた。


「おはようございます、少尉。」


 見覚えのある工廠技師が帽子を取る。


 まだ三十代半ばほどだろうか。


 顔には寝不足の色が濃く残っていた。


「おはようございます。昨夜も遅くまで作業でしたか。」


「ええ。」


 技師は苦笑する。


「就役前ですからね。今は一つでも不具合を減らしたいんです。」


 そう言って、大和の艦首を見上げた。


「海へ出てから直すより、今直した方がいい。」


「それが工廠の仕事です。」


 秋月も同じ方向を見上げる。


 朝日に照らされ始めた大和の艦首は、静かに空へ伸びていた。


 この艦は、まだ戦場を知らない。


 だが未来では、この艦も、そして多くの仲間も過酷な運命を辿る。


 その事実を知っているのは、自分だけだった。


 午前中の訓練は、応急工作班との合同訓練だった。


 艦内の一区画を「浸水した」と想定し、防水扉の閉鎖、負傷者の搬送、応急修理までの一連の流れを確認する。


「急げ!」


「工具を持ってこい!」


「こっちは止血を優先だ!」


 怒号が飛び交う。


 だが、それは混乱ではない。


 命令系統に従った、訓練された声だった。


 秋月も担架の片側を持ち、負傷者役の水兵を運ぶ。


 兵学校では何度も経験した訓練だったが、巨大戦艦では距離も区画も桁違いだった。


 汗が額を伝う。


 冬の朝だというのに、軍服の背中は汗で湿っていた。


 訓練終了後、砲術長が全員を集める。


「よく覚えておけ。」


 低く落ち着いた声だった。


「敵の砲弾だけが艦を沈めるんじゃない。」


「火災も、浸水も、一つ間違えれば艦を失う。」


 誰も口を開かない。


「応急工作は裏方ではない。」


「最後まで艦を戦わせるための仕事だ。」


 秋月は自然と姿勢を正した。


 未来の記憶では、大和は激しい攻撃を受けていた。


 その時、このような訓練がどれほど多くの命を救ったのだろう。


 昼食は艦内食堂だった。


 湯気の立つ麦飯。


 味噌汁。


 煮物。


 塩鮭。


 豪華ではない。


 しかし、寒さの中で食べる温かい食事は身体へ染み渡る。


「少尉、こちら空いてます。」


 若い少尉候補生が声を掛けてきた。


「失礼する。」


 二人は向かい合って腰を下ろした。


「兵学校は今年卒業されたんですか。」


「ああ。」


「大和勤務なんて羨ましいです。」


 無邪気な笑顔だった。


 未来を知らない笑顔。


 秋月はその笑顔を見ながら、胸の奥が締め付けられる。


 彼らもまた、未来では戦場へ向かうのかもしれない。


 そう思った瞬間だった。


 湯気が揺らぐ。


 視界が白く染まる。


 今までで最も鮮明な映像だった。


 朝焼け。


 海面を滑るように飛ぶ航空機。


 翼の日の丸。


 操縦席の若い搭乗員。


 そして無線機から聞こえる力強い声。


『全軍、突撃せよ。』


 次の瞬間、眼下に広大な軍港が広がった。


 戦艦が並ぶ泊地。


 整然と停泊する艦艇。


 その海面へ、一本の魚雷が走る。


 秋月は思わず立ち上がった。


「真珠湾……。」


 その名は口に出した瞬間、自分でも驚くほど自然だった。


 しかし、どうしてその名が分かったのか、自分にも説明できなかった。


 食堂のざわめきが戻る。


 映像は一瞬で消えていた。


 秋月はゆっくりと椅子へ座り直す。


 鼓動だけが、いつまでも速く鳴り続けていた。


「少尉、大丈夫ですか。」


 向かいに座る少尉候補生が心配そうに声を掛けた。


 秋月は我に返り、小さく笑みを作る。


「ああ、少し考え事をしていただけだ。」


「そうですか。顔色が悪く見えたので……。」


「ありがとう。」


 候補生は安心したように頷き、再び食事へ戻った。


 秋月も箸を手に取る。


 しかし、味噌汁の湯気を見つめながら、頭の中では先ほどの映像が何度も繰り返されていた。


 朝焼けの空。


 低空を飛ぶ艦上機。


 停泊する艦隊。


 そして、自分の口から自然にこぼれた「真珠湾」という言葉。


 兵学校の授業で地名は学んだ。


 アメリカ・ハワイの海軍基地であることも知っている。


 だが、未来の記憶と結び付いたのは初めてだった。


 食事を終えた秋月は、甲板へ出た。


 冬の日差しは低く、瀬戸内海を渡る風は冷たい。


 岸壁では補給担当の下士官が木箱の数を確認し、主計科員が帳簿へ数字を書き込んでいる。


 砲弾だけでは戦えない。


 食料も、水も、工具も、医薬品も必要だ。


 巨大戦艦とは、一つの街が海へ浮かぶようなものだった。


 その時、砲術長がゆっくりと歩み寄ってきた。


「少尉。」


「はい。」


「就役まで半月あまりだ。」


「焦る気持ちは分かる。」


 秋月は驚いた。


 自分の心を見透かされたような気がしたからだ。


 砲術長は穏やかな口調で続ける。


「だが、軍人は焦って判断を誤るのが一番危険だ。」


「分からないことは確認する。」


「確信が持てないことは断定しない。」


「それが多くの命を預かる者の責任だ。」


 秋月の胸が大きく脈打つ。


 その言葉は、まるで未来を知る自分への戒めのようだった。


「はい。」


 その返事には自然と力が入った。


 午後の勤務では、艦内通信の最終確認が行われた。


 伝声管の通話試験。


 電話の応答。


 非常用回線の切り替え。


 砲術科と艦橋、機関科との連携。


 単調な作業が続く。


 しかし、その一つひとつが実戦では艦全体の動きを左右する。


 夕刻。


 工廠の汽笛が鳴り、一日の作業終了を告げた。


 工員たちは工具箱を抱え、それぞれの持ち場を後にする。


 秋月は岸壁へ並ぶ彼らの姿を見送った。


 軍服ではない。


 だが、その背中には軍人と同じ責任があった。


 この人たちが造った艦へ、自分たちは命を預ける。


 その重みを忘れてはならない。


 夜。


 宿舎へ戻ると、秋月は『未来の記録』を机へ広げた。


 深呼吸を一つし、慎重に筆を走らせる。


『真珠湾』


『停泊中の艦隊』


『艦上攻撃機』


『夜明け』


 筆先が止まる。


 ここから先を書こうとすると、頭の奥に鈍い痛みが走った。


 無理に思い出してはいけない。


 秋月は静かに筆を置く。


「まだ……その時ではない。」


 断片だけで未来を決めつけることはできない。


 思い出した事実だけを積み重ねる。


 それが、自分自身へ課した規律だった。


 窓を開けると、冬の夜風が静かに部屋へ流れ込む。


 遠くに見える呉軍港では、大和の艦影が月明かりを受けて黒く浮かび上がっていた。


 その頃、秋月の知る由もない北太平洋では、第一航空艦隊が厳重な無線封止を維持したまま、静かに東へ進み続けていた。


 誰にも知られず。


 誰にも気付かれず。


 歴史は、十二月八日へ向かって確実に歩みを進めていた。


 秋月は大和へ向かって静かに敬礼する。


「俺は、その日を見届ける。」


 その声は小さかった。


 だが、その決意だけは、これまでで最も揺るぎないものになっていた。


 ――続く。


あとがき


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


今回は、戦いではなく「戦いへ向かう日常」を意識して描きました。歴史を動かしたのは一瞬の戦闘だけではなく、その前に積み重ねられた訓練や整備、そして多くの人々の仕事だったと感じています。


本作は史実への敬意を第一に、「もし未来を知る一人の士官がいたら」というIFを丁寧に描いていきます。史実と創作の境界を大切にしながら、一歩ずつ物語を積み重ねていきます。


面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると、とても励みになります。


作者より


ここから物語はいよいよ、史実の大きな転換点へ近づいていきます。歴史を尊重しながら、その緊張感を大切に描いていきます。


次回 第10話「十二月八日 開戦」

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