Ⅴ
凍てつくような長い夜が明け、王都アルディミアに灰色の黎明が訪れようとしていた。吹き荒れていた猛吹雪は嘘のように鳴りを潜め、代わりに天を覆うのは、刃のように冷たく澄み切った群青の空である。
東の地平線から微かに漏れ出した朝陽の光が、王城の黒鉄の尖塔を冷ややかに照らし出し、雪に覆われた街の屋根屋根に薄氷の如き輝きを与えていた。その静寂に包まれた朝の空気は、まるで世界そのものが息を潜め、これから始まろうとしている大いなる反転の運命を待ち受けているかのようであった。
王城の北翼、大公ヴァレリウスが居城とする「黒獅子の塔」。その中層に位置する広大な大書庫において、エレオノーラ・フォン・ヴァーレンベルクは、すでに数時間も前から分厚い羊皮紙の山と格闘していた。
彼女の身を包むのは、昨日までの泥に塗れた灰色の粗末な衣ではない。ヴァレリウスの命によって大公家専属の仕立て屋が夜を徹して用意した、上質な濃紺の羊毛で織られた豪奢にして厳格なる執務服であった。過剰な装飾や華美な刺繍は一切排され、首元までしっかりと覆う高い襟と、無駄のない流麗な意匠が、彼女の長身と真っ直ぐな背筋を一層際立たせている。袖口にのみ、北方軍の象徴である銀糸の狼の紋章が控えめに縫い取られていた。かつて社交界の華と謳われた頃の、孔雀のように着飾ったドレス姿も確かに美しかったが、今の彼女が放つ、知性と禁欲を極めたその佇まいは、まるで古の戦乙女が神殿に降り立ったかのような、冷厳で侵し難い美しさを湛えていた。
長く豊かな亜麻色の髪は、黒いベルベットの細いリボンで後ろにすっきりとまとめられ、その幾筋かが、蜜蝋燭の揺らめく光を受けて黄金の糸のように輝いている。彼女の蒼玉の瞳は、瞬きすら忘れたかのように、机上に広げられた古文書の文字の羅列を猛烈な速度で追っていた。
書庫の中は、数百年分の歴史と知識が発する特有の匂い――乾いた羊皮紙、没食子インクの微かな酸味、そして革表紙の重厚な香り――に満ちていた。壁という壁を埋め尽くす巨大な樫の木の書棚には、王国の創世記から現代に至るまでの法典、条約文、そして各領地の徴税記録が、まるで眠れる巨竜の鱗のように隙間なく収められている。
エレオノーラは今、かつて己の父、ヴァーレンベルク大公を死に追いやった「国家叛逆罪」の根拠とされた記録の洗い出しを行っていた。父を陥れたのは、新興貴族の筆頭であり、現在の王宮において絶大な権勢を誇る宰相、ローゼン伯爵とその一派であることは火を見るより明らかであった。昨夜の宴で彼女を辱めようとしたマルグリットの父親こそが、その首魁である。彼らは、父が北方辺境の異教徒たちと密通し、王国の軍事機密と莫大な軍資金を敵に横流ししたという偽造書簡をでっち上げた。そして、その証拠を裏付けるものとして、国庫からの「使途不明金」の存在を挙げたのである。
しかし、幼き頃より父の膝元で領地経営と法学を学び、数字の真理を誰よりも深く理解しているエレオノーラにとって、そのような浅薄な偽造など、児戯に等しいものであった。
彼女の白魚のような、しかし下働きの労役によって無数の細かな傷が刻まれた指先が、黒々としたインクを多分に含んだ羽根ペンを握りしめる。滑らかな羊皮紙の上を、ペン先が軽やかな音を立てて疾走していく。それは、半年間、冷たい井戸水を汲み、床の泥を拭うことしか許されなかった彼女の手が、再び王国の歴史を動かす「知の剣」を取り戻した瞬間であった。
「……やはり、そうでしたか」
誰もいない書庫に、エレオノーラの琴の糸のような声が小さく響いた。彼女の視線の先には、過去十年間における北方軍への兵站記録と、ローゼン伯爵が管轄する王室造幣局の出納帳の写しが並べられている。
巧妙に数字が書き換えられ、一見しただけでは全く辻褄が合っているように見える台帳。しかし、エレオノーラの驚異的な記憶力と論理的思考力は、その複雑怪奇な数字の迷宮の奥底に隠された、一本の淀んだ暗渠を確実に見つけ出していた。
「ローゼン伯爵は、北方への補給物資――特に鉄鉱石と冬営用の麦の買い付け額を、市場価格の三倍に水増しして国庫に計上していた。そして、その差額を架空の商会を経由して自らの私財へと還流させている。父上は、この莫大な不正蓄財の動きに気づき、内偵を進めておられたのだわ。だからこそ……彼らは父上を消す必要があった。父上の『密通の対価』とされたあの使途不明金は、他でもない、ローゼン伯爵自身が横領した国庫の金そのもの」
真実の輪郭が、冷酷なまでに明確に浮かび上がる。父は、国を裏切ったのではない。己の私腹を肥やすために国を食い物にしている寄生虫どもから、この王国を守ろうとして、逆にその毒牙にかかったのだ。
ペンを握るエレオノーラの手に、強い力が込められた。ペンの軸が微かに軋む音を立てる。彼女の胸の奥底で、半年間、厚い氷の底に封じ込めてきた悲哀と怨嗟が、真っ赤な劫火となって燃え上がろうとしていた。父の無念、奪われた一族の誇り、そして、何の罪もない自分が強いられたあの屈辱の日々。それら全てが、ローゼン伯爵という男の、底無しの強欲と浅ましさによって引き起こされたという事実。
しかし、エレオノーラは深く、静かに息を吐き出し、己の内に渦巻く激情を氷の意志で押さえ込んだ。
「怒りに身を任せてはなりません。感情は論理を曇らせ、復讐の刃を鈍らせる。私がなすべきは、泣き叫ぶことでも、暗殺の刃を研ぐことでもない。この腐敗した宮廷の法と秩序という土俵の上で、奴らの罪を白日の下に晒し、完全に、そして合法的に破滅させること」
彼女は、聖書の一節の如く己に説き、再びペンを走らせ始めた。ローゼン伯爵の横領の手口、資金の移動経路、そしてそれに加担したであろう官吏たちの名前。それらを、誰が読んでも一切の反論が不可能な、完璧な論理の構築物として一つの報告書にまとめ上げていく。その作業に没頭する彼女の姿は、冷徹な死神が罪人の調書を作成しているかの如き、凄絶なまでの美しさと静けさに満ちていた。
不意に、背後の重厚な扉が低い音を立てて押し開かれた。
振り返るまでもなく、その重く規則正しい足音と、空気を震わせるような圧倒的な覇気で、誰が訪れたのかは分かっていた。
「……随分と早いお目覚めだな。いや、眠ってすらいないのか」
漆黒の軍服に身を包んだヴァレリウス大公が、腕を組みながら書庫の入り口に立っていた。彼の銀狼の毛皮には微かに雪が乗っており、彼がすでに朝の鍛錬を終え、外気を浴びてきたことを示していた。隻眼の鋭い眼差しが、エレオノーラの周囲に築き上げられた本の山と、彼女の目の前にある書き込みで真っ黒になった羊皮紙を捉える。
エレオノーラは即座にペンを置き、立ち上がると、流れるような所作で臣下の礼をとった。
「おはようございます、大公殿下。殿下こそ、昨夜の遅きご帰還にも関わらず、これほど早くからお体を動かされているとは。武の誉れ高き北の獅子の武勇は、日々の絶え間なき修練の賜物であると、深く感入いたしました」
「宮廷の者たちのように、陽が高くなるまで羽毛の寝台で微睡む趣味は持ち合わせておらんのでな。戦場では、黎明の油断が即座に死に直結する」
ヴァレリウスは歩み寄り、エレオノーラの対面の椅子に深く腰を下ろした。そして、彼女の纏う新たな執務服をじっと見つめた。
「……悪くない。やはり貴女には、泥に塗れた衣よりも、そのような誇り高き装いこそが相応しい。仕立て屋を叩き起こして作らせた甲斐があったというものだ」
「殿下のご厚情、身に余る光栄に存じます。この衣の重みと温かさは、殿下が私にお与えくださった使命の重さそのものと受け止めております。決して、そのご期待を裏切るような真似はいたしません」
エレオノーラは静かに頭を下げた後、自らが徹夜でまとめ上げた十数枚に及ぶ報告書を丁寧に揃え、ヴァレリウスの前に差し出した。
「殿下。ご命令の通り、ローゼン伯爵一派による不正の全容、ならびに我が父、ヴァーレンベルク大公への叛逆罪の捏造に関する構造を解明いたしました。これが、その証明となる調書でございます」




