Ⅳ
エレオノーラは両手で恭しく杯を受け取った。荒れ果て、あかぎれの絶えない彼女の指先に、銀の杯から伝わる確かな熱がじんわりと染み込んでいく。それは、半年間味わうことのなかった、人の温もりそのもののようであった。彼女は小さく一礼すると、淑やかに口元へ杯を運び、一口だけ含んだ。香草の香りと、葡萄酒の深いコク、そして温かな熱が、凍てついていた彼女の喉から胸の奥へと、静かに、しかし確実に命の火を灯していく。
「……何故、私をお救いになられたのですか」
静寂を破ったのは、エレオノーラの方であった。彼女の蒼玉の瞳は、揺らめく暖炉の炎を反射しながら、真っ直ぐに大公の隻眼を見つめ返していた。
「あのような場で、大公殿下が私ごとき罪人の娘に手を差し伸べられれば、王宮の雀どもはこぞって殿下を非難するでしょう。マルグリット・フォン・ローゼン女伯の背後には、現在の宮廷を牛耳る新興貴族の派閥がおります。無用な政争の種を撒くことは、殿下にとっても益なきことのはず」
それは、冷徹なまでの状況分析であった。自らが受けた恩情に涙して感謝するのではなく、まずその行動の政治的・理性的な意図を問いただす。その彼女の毅然たる態度に、ヴァレリウスは唇の端を微かに吊り上げ、野獣が満足した時のような笑みを浮かべた。
「やはり、ただの深窓の令嬢ではないな。貴女の父上、ヴァーレンベルク大公から聞かされていた通りだ」
父の名が出た瞬間、エレオノーラの重ねられた指先が微かに震えた。しかし、それ以外に彼女が動揺を見せることはなかった。
「……父をご存知であったのですか」
「私は辺境の蛮族討伐に明け暮れる無骨者ゆえ、王都の貴族とはほとんど交流を持たなかった。だが、貴女の父上だけは別だ。あの御方は、腐敗した王宮において、唯一国庫の適正な運用と、我が北方軍への物資補給の重要性を理解しておられた。我々が北の防衛線を死守できたのは、偏にヴァーレンベルク大公の尽力があったからこそだ」
ヴァレリウスは自身の杯を一気に煽ると、重い息を吐き出した。その声には、深い怒りと無念が混じっていた。
「半年前、私が国境地帯で敵の主力部隊と対峙している最中に、大公は唐突に叛逆の罪を着せられ、処刑された。……報告を受けた時には、全てが終わっていた。裁判の記録を取り寄せたが、証拠とされた書簡の筆跡は拙劣な偽造であり、証人たちの証言も矛盾だらけの茶番劇であった。奴らは、大公の高潔さを恐れ、己らの懐を肥やすために邪魔な忠臣を排除したのだ」
エレオノーラは息を呑んだ。父の無実を、この王国で最も力を持つ男の一人が、ここまで明確に断言してくれたこと。それは、半年間、冷たい石牢と下働きの暗闇の中で、一人孤独に耐え忍んできた彼女の心に、一筋の強烈な光を投げかけるものであった。彼女の美しい顔立ちが微かに歪み、蒼玉の瞳の奥底に、抑えきれない悲哀と喜びの感情が渦巻いた。しかし、彼女は奥歯を強く噛み締め、決して涙をこぼすまいと己の魂に鞭を打った。
「……感謝いたします、殿下。父の魂も、殿下のお言葉によっていかばかりか慰められましょう。ですが……」エレオノーラは深く息を吸い込み、再び平定な声を取り戻した。「過ぎ去った過去は変えられません。私は叛逆者の娘として、この王宮で死ぬまで労役を科せられた身。殿下が私に同情し、庇護を与えようとしてくださっているのだとすれば、それはお断りせねばなりません。私は、誰かの憐れみによって生かされることを、私の血にかけて拒絶いたします」
なんという誇り高さであろうか。絶望の底に突き落とされ、今まさに救いの手が差し伸べられたというのに、この女は己の矜持を第一とし、安易な同情を撥ね除けたのだ。ヴァレリウスは、これほどまでに強靭で美しい魂を、戦場ですら見たことがなかった。
「勘違いをするな、エレオノーラ」
ヴァレリウスの声は一段と低く、そして厳粛な響きを帯びた。
「私は貴女に同情などしていない。貴女を憐れむことなど、貴女のその気高き魂に対する侮辱以外の何物でもない」
彼は執務机へと歩み寄り、山積みになった古びた羊皮紙の束を一つ手に取ると、エレオノーラの前の小卓に置いた。それは、難解な古代語で記された書物の断片であった。
「私は今、王宮の腐敗を一掃し、国家の秩序を正すための準備を進めている。だが、私には武力と兵しかなく、王宮の歴史、法典、そして古き盟約の記録を読み解く知識が圧倒的に不足している。我が軍の幕僚たちも、剣の振り方は知っていても、古文書の解読はできぬ」
ヴァレリウスは再びエレオノーラの前に身を屈め、その隻眼で彼女を真っ直ぐに射抜いた。
「貴女は、王宮最高の教育を受けた才女と聞く。五つの言語を操り、王国の歴史と法の全てを頭に叩き込んでいると。……エレオノーラ・フォン・ヴァーレンベルク。私には、貴女のその『知』という名の剣が必要だ」
エレオノーラは目を見開いた。それは庇護でも、同情でも、身の回りの世話をさせるための愛人としての要求でもなかった。一人の戦友として、己の能力を求められたのである。
「私は貴女を、下働きとしてではなく、我が直属の文官、そして書庫の管理者として迎え入れる。待遇は私の幕僚と同等とし、一切の不敬を許さぬ。……貴女の父を陥れた者たちを法の下に引きずり出し、この国の澱んだ血を浄化する。そのための戦いに、貴女の力を貸してはくれまいか」
風が窓を打ち据え、遠くで冬の嵐が咆哮を上げていた。暖炉の炎が爆ぜる音が、静まり返った部屋に響き渡る。
エレオノーラは、目の前に置かれた古代語の羊皮紙と、そして、武骨極まりない大公の真摯な眼差しを交互に見つめた。半年間、床の汚れを落とすことしか許されなかった彼女の手に、再び王国を動かすための「文字」という武器が委ねられようとしている。
彼女の中で、長く凍りついていた何かが、春の雪解けのように静かに、しかし確かな力強さをもって崩れ去っていくのを感じた。それは決して憎悪ではなく、己の義務と誇りを取り戻すための、静かなる決意の芽吹きであった。
エレオノーラは立ち上がり、灰色の衣の裾を僅かに引き絞ると、臣下が主君に対して行う、最も古く、最も格式高い礼法――すなわち、右手を左胸に当て、深く優雅に一礼する姿勢をとった。
「……私の命、そして私の頭脳に刻まれた全ての叡智を、殿下の御剣として捧げます。この身が朽ち果てるまで、殿下の大義に仕えましょう」
その言葉は、まるで古代の神殿で紡がれた誓いの言葉のように、厳粛に響き渡った。
ヴァレリウスは深く頷き、立ち上がった。彼の背後にある窓の外では、依然として暗黒の吹雪が吹き荒れていたが、この冷たい石造りの塔の中には、確かに二つの高潔なる魂の炎が、互いを照らし出すように赤々と燃え始めていた。
灰燼の中から拾い上げられた白百合は、北の孤狼の庇護の下、ただ守られるだけの花ではなく、自らもまた鋭い棘を持つ知の剣として、王宮に渦巻く陰謀の闇を切り裂くための第一歩を、今ここに踏み出したのである。




