Ⅱ
その動作は、決して屈服を意味するものではなかった。彼女が膝を折る姿は、まるで騎士が主君に忠誠を誓う際の神聖なる儀式を思わせた。あるいは、殉教者が神の御前にて祈りを捧げる際の、崇高なる姿そのものであった。彼女は懐から粗末な白い布を取り出すと、冷たい大理石の床に染み込んだ葡萄酒を、一拭き、また一拭きと、極めて丁寧な手つきで拭い始めた。
彼女の背筋は依然として真っ直ぐに伸び、その横顔には、彫刻家が精魂込めて打ち出した大理石の女神像の如き、侵し難い静謐さが宿っていた。床を拭くという最も卑しい行為をしているにも関わらず、彼女から放たれる圧倒的なまでの「気高さ」は、周囲の空気を浄化していくかのようであった。
その余りにも美しく、そして荘厳な姿を前にして、嘲笑を浮かべていた貴族たちの顔から、次々と笑みが消え去っていった。彼らは突如として、己らの内にある醜悪さ、嫉妬、そして卑劣な魂の在り方を、彼女の無言の行動によって突きつけられたのである。華美な衣装を纏い、高価な宝石で身を飾っているのは自分たちであるはずなのに、粗末な衣を纏い、床に膝をついているあの女の方が、誰よりも王者の風格を備えている。その紛れもない事実が、彼らの矮小な自尊心を音もなく打ち砕いていった。
マルグリットの顔は、屈辱と怒りで朱に染まっていた。彼女はエレオノーラを貶めるつもりであったのに、結果として己の浅ましさを全宮廷に露呈する羽目になったのだ。
「……何をしているの! もっと素早く、這いつくばって拭きなさい! この犬め!」
マルグリットがヒステリックに叫び、エレオノーラの肩を蹴りつけようと足を振り上げた、まさにその時であった。
「――その足を下ろすがよい。狂女よ」
重く、冷徹で、絶対的な権威を帯びた声が、広間に轟いた。それは決して声を荒らげたものではなかったが、冬の嵐の如き威圧感をもって、その場にいた何百という貴族たちを瞬時にして氷結させた。
群衆が海が割れるかのように左右に道を空けた。その奥から姿を現したのは、漆黒の軍服に身を包み、肩には銀狼の毛皮を羽織った壮健なる男であった。彼の腰には長大な宝剣が佩かれ、一歩歩みを進めるごとに、銀の拍車が冷たく硬質な音を響かせる。彼こそは、この王国の北の国境を長年にわたり護り抜き、異教徒の軍勢を一人で退けたとされる生ける伝説。王弟にして、王国最高の軍令権を握る男――ヴァレリウス大公爵であった。
ヴァレリウスの左目には深い刃の傷跡が刻まれ、その隻眼は、闇夜を貫く鷹の如き鋭さをもってマルグリットを射抜いていた。彼が放つ覇気は、甘ったるい香水と腐敗した権力闘争に塗れたこの広間において、唯一の清浄なる嵐であった。
マルグリットは恐怖に顔を引き攣らせ、後退ずった。「た、大公殿下……これは、その……この愚鈍な侍女が……」
ヴァレリウスはマルグリットの弁明など一顧だにせず、床に膝をつき、己の作業を止めようとしないエレオノーラを見下ろした。彼の隻眼の奥に、微かな、しかし確かな驚愕と敬意の光がよぎった。
彼は幾多の戦場を見てきた。死の恐怖に泣き叫ぶ男たち、命乞いをする敵将、狂気に陥る兵士たち。しかし、今彼の目の前にいるこの女は、己の尊厳を根底から否定されるような極限の屈辱の中にありながら、その魂の純潔をただの一片も汚されてはいなかった。彼女の放つ静謐なる光は、ヴァレリウスが長年探し求めていた、真なる「貴族の義務」の体現に他ならなかった。
ヴァレリウスはゆっくりと歩み寄り、エレオノーラの前に身を屈めた。大公たる彼が、一介の下働きである彼女と同じ視線にまで降り立ったことに、周囲の貴族たちは息を呑み、恐怖に震え上がった。
大公は厚い革手袋に包まれた手を伸ばし、エレオノーラが握っていた粗末な布を静かに取り上げた。
「殿下……」エレオノーラは初めて顔を上げ、静かに大公を見た。その声は、深き森の奥で湧き出る泉のように澄み切っていた。
「よせ。これ以上、その白百合の如き手を、泥土に汚す必要はない」
ヴァレリウスは低く、しかし広間の隅々にまで届く明瞭な声で言った。そして、彼は立ち上がり、マルグリットに向かって冷酷なる宣告を下した。
「マルグリット・フォン・ローゼン女伯。貴殿の振る舞いは、王宮の品位を著しく汚すものである。真の気高さとは、血筋や身につけた宝石によって示されるものではない。己の魂をいかに律し、絶望の淵にあっても己の矜持を保ち続けるか。それに尽きる。貴殿は今宵、誰よりも卑しい魂をこの場に晒したのだ」
マルグリットは膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らした。周囲の貴族たちも、ヴァレリウスの鋭い視線に晒され、誰もが青ざめて下を向いた。
ヴァレリウスは再びエレオノーラを振り返り、自らの手を差し伸べた。それは、臣下が主君に手を差し出すような、極めて敬意に満ちた仕草であった。
「エレオノーラ・フォン・ヴァーレンベルク。貴女の魂の光は、どれほどの悪意の闇をもってしても覆い隠すことはできぬと、今この場において証明された。私と共に来られよ。貴女の居場所は、このような灰燼の中にはない」
エレオノーラは差し出された無骨な手を見つめ、やがて、わずかに伏し目がちに、しかし確かな力強さをもってその手を取った。凍てつくような冬の夜の王城において、彼女の魂の純潔は、圧倒的なる武と威厳を誇る男によって、静かに、そして決定的に見出されたのであった。
外では北風が依然として唸りを上げていたが、エレオノーラを包む空気は、もはや絶対的な孤独の寒さに凍えるものではなくなっていた。二人の背中を見送る広間には、ただ圧倒的な威圧感と、真なる気高さの前に屈服せざるを得なかった者たちの、深い沈黙だけが取り残されていた。




