199.わたしの新生活⑧
兄は、わたしの驚いた表情には気付かないまま話を続ける。
「契約の内容は以上。」
「玻璃殿が契約書を書き終え、当主様の確認が終わるまで、少しだけ私から皆へ伝えたいことがある。」
兄はゆっくりと分家の人たちを見渡した。
「私は、結果として次期当主の座を亜衣様へ譲る形となった。」
「しかし、そのことを恨んではいない。」
静まり返った母屋に、兄の声だけが響く。
「むしろ、この契が交わされることで、私は家を出た後も皆との縁を持ち続けることができる。」
兄は一度わたしへ視線を向け、再び分家の人たちへ向き直る。
「そして、この契は、次期当主であられる亜衣様が、私との関係だけでなく、皆との関係も築こうとしてくださった結果でもある。」
「今すぐとは言わない。」
「それでも、少しずつで構わない。」
「どうか皆には、亜衣様へ心を開き、この家を共に守っていただきたい。」
「それが、私の願いだ。」
兄が静かに頭を下げる。
分家の人たちも、それぞれ静かに頷いていた。
その様子を見届けると、兄はわたしの方を向く。
声には出さず、
『話せ。』
と口だけが動いた。
同時に、手のひらへ収まるほどの小さな紙をそっと渡してくる。
……用意してたんだ。
わたしは深呼吸を一つすると、その紙へ目を落とした。
そして、分家の人たちを見渡す。
「皆さん。」
自然と緊張で声が震える。
「次期当主になったにもかかわらず、お務めも行わず、本当に申し訳ありませんでした。」
わたしは深く頭を下げた。
しばらくして顔を上げる。
「これからは毎日お務めを行い、次期当主としての自覚を持って精進していきます。」
「どうか……。」
「どうか、わたしに皆さんの力を貸してください。」
再び頭を下げた。
母屋は静まり返ったままだった。
しかし、その静けさは先ほどまでとはどこか違っていた。
ちょうどその頃、
「当主様。」
玻璃さんが契約書を書き終え、じいちゃんへ差し出す。
じいちゃんは隅々まで目を通し、小さく頷いた。
「問題ない。」
契約書は兄の元へ渡される。
兄は一文字一文字確認するように、何度も内容を読み返していた。
ようやく満足したのか、小さく頷く。
その後、契約書はわたしの元へ渡された。
わたしも丁寧に内容を確認する。
……うん。
さっき兄が読み上げた内容と同じだ。
わたしと兄は、それぞれ日付と名前を書き入れた。
兄は小刀を手に取ると、わたしへ差し出す。
「どうぞ。」
わたしは小さく息を吸い、右手の親指へ浅く刃を当てる。
チクリとした痛み。
滲んだ血を契約書へ押し当てた。
続いて兄も同じように親指を切り、血判を押す。
兄は契約書を持ち上げ、集まった皆へ見せた。
「契約は、この内容をもって締結する。」
そう告げると、玻璃さんが契約書を受け取る。
じいちゃんが立ち上がる。
兄も立つ。
分家の重役たちも静かに立ち上がった。
慌ててわたしも立ち上がり、その後をついて行く。
向かった先は、じいちゃんの部屋の奥。
あの大きな箱の前だった。
玻璃さんは静かに箱の蓋を開ける。
中へ契約書を納めると、ゆっくりと蓋を閉じた。
―その瞬間。
ドクン。
心臓が、一際大きく脈打った。
胸の奥へ何かが刻み込まれたような、不思議な感覚が全身を駆け抜ける。
理由は分からない。
それでも、その事実だけははっきり理解できた。
(……契約が、成立した。)
母屋には再び静寂が訪れる。
その静けさの中で、わたしはもう一つのことにも気付いていた。
さっきまで、あれほど険しい表情でこちらを見ていた分家の人たちの視線が、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
ご意見 ご感想 よろしくお願いします。




