111.兄が見ている世界 —自動車学校⑩—
ありさの声を兄は聞き逃さなかった。
兄はありさを自分の方へ軽く引き寄せると、
『ありちゃんが俺の手の届く所にいる限り、俺はありちゃんのことを守るよ。』
と耳元で囁いた。
ありさは顔を真っ赤にしながら、
『ありがと……』
と小さく呟いた。
次の日。
陽子がバスに乗ってくると、少し服装や髪が乱れていた。
陽子は何事もないように振る舞おうとしているが、
兄は、
『陽子ちゃん、何かあったのかな?』
と尋ねる。
ありさも真剣な目で陽子を見ていた。
陽子は言い出しづらそうに、
『いやー、朝バス停に向かってたら同じ高校の子達と会って、突き飛ばされたりして転んじゃって……』
と答えた。
兄は目を細め、陽子の後からバスに乗ってきた女子達を見る。
そして小声で、
『この子達? 全員?』
と確認した。
陽子も小声で、
『真ん中の子が、他の子に指示してやらせてる感じ』
と答える。
兄は意外そうな表情を浮かべた。
わたしが、
『どんなイメージしてたの?』
と聞くと、
兄は、
『ロングスカートでヨーヨーしてるイメージ。』
と平然と答えた。
わたしは思う。
不良のイメージが昭和から平成初期で止まってる……。
わたしは兄へ力説する。
『堂々とした態度と姿勢。
ギリギリ許容される範囲の着崩し。
手入れの行き届いた髪やメイク。
万人受けする表情と笑顔。
一見して分からない所に、女子のカーストは存在するんだよ!』
そして、
『あっくんは、その子を見てどう思ったの?』
と尋ねた。
兄は平然と答える。
『足を踏み外して、泣き喚く顔を見てみたい。
高い所にいる人ほど、落ちた時は面白いし。』
わたしは慌てて確認する。
『してないよな?
思っただけだよな!?』
兄は呆れたように言う。
『当たり前じゃん。
良識ある社会人になろうとしてる人間が、そんなことするわけないでしょ。』
そう言った後、
『まりちゃんが、そうなったら分からないけど……』
と小さく付け加えた。
兄のメンタルブレイクポイントは、まり姉だもんね。
他は何も要らないけど、それを失ったら全部どうでも良くなる。
わたしはため息をつきながら、
『もはや依存だよねー』
と言う。
兄も苦笑する。
『分かってるよ。
でも、子供の頃から何があっても居てくれたのは、まりちゃんだけだから。
これは変えられない。』
わたしは気持ちを込めて宣言した。
『わたくし、大坂亜衣は、まり姉と敵対することはしません!
これまで通り友好的な関係を築き続けることを、ここに誓います!』
兄は優しい笑顔を浮かべる。
だが、どこか寒気のする声だった。
『まりちゃんは頑張り屋さんだから、一人でも友好的な人が増えるのは大歓迎だよ。』
わたしは思う。
普段温厚な人が本当にキレた時こそ、笑いながら残酷なことをするのだろう、と。
バスが自動車学校へ到着する。
陽子と同じ学校の女子達が降りようと歩き始めた。
その時だった。
『キャ!』
『わっ!』
『ちょっと!』
幾つもの声が上がる。
わたしが周囲を見ると、女子軍団が小規模な群衆雪崩を起こしていた。
兄は冷たい目で女子達を見ながら、
『さっさと退けよ。』
と呟く。
女子達は、
『チッ』
と舌打ちすると、そのままバスを降りて行った。
わたしは兄へ尋ねる。
『何かやったの?』
兄は肩をすくめた。
『俺は知らない。
絹さん、足が長いから前の子とぶつかったんじゃない?
知らんけど。』
わたしはさらに追及する。
『やらせたの?』
兄は首を横に振った。
『陰湿なことをしたって分家の方々から悪評が立つからしない。
やるなら俺に攻撃を向かせて、守る形を取る。』
わたしは少し安心した。
だが同時に思う。
今後は立ち居振る舞いに気を付けないといけない。
そう考えると、自然とため息が出た。
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