9.兄が見ている世界 —補習編②
川田の顔面に鳩が直撃したあと、そのまま机や椅子をなぎ倒しながら兄へ向かって来ようとした。
その瞬間。
いかついおじさんが、川田の足を引っ掛けた。
川田は勢いよく顔面から転倒する。
しかも鳩は、転ぶ直前に顔から離れ、そのまま教室の窓から飛び去って行った。
そして川田はというと、鼻が変な方向へ曲がり、鼻血をダラダラ流しながら、取り巻きの男子に支えられて教室を出て行った。
『気に食わないやつがいるなら、最初から距離を置けばいいのに』
兄が、ぼそっと呟く。
『どうして無理に関わろうとするんだろ』
その横顔は、少しだけ寂しそうだった。
『どうしたの?』
私が聞くと、兄はすぐにいつもの顔へ戻る。
『なんでもなーい』
少しすると、メガネをかけた神経質そうな教師が、ジャージ姿で教室へ入ってきた。
「夏休みの補習は明日で最後だ」
担任らしき教師は、教卓へプリントを置きながら話し始めた。
「明日は補習の合間に三者面談を行う。
保護者には以前プリントを渡しているから分かっていると思うが、しっかり将来について話をしておけ」
教室のあちこちから、面倒そうな声が漏れる。
教師は気にした様子もなく続けた。
「SPIの演習問題を配る。
必要なやつは取りに来い。
受験予定の会社や学校に合わせた問題集を持ってきてるやつは、それをやってていい」
「それじゃ始めろ」
生徒達が立ち上がり始める中、教師が兄へ声を掛けた。
「大坂」
兄が顔を上げる。
「お前が受けようとしてる会社、適性試験あったよな」
「あります」
「11時から、他の科も集めてクレペリン検査の練習やるらしい。
情報技術科の教室へ行け」
「分かりました」
私はその会話を聞きながら、ふと疑問に思った。
『あっくんって、大学とか専門学校じゃなくて、就職希望なの?』
『そうだけど』
兄はプリントに名前を書きながら答える。
『どうしたの今さら』
…知らなかった。
ずっと一緒に住んでいたのに、兄の進路すら私は知らない。
『ちなみに、どこ受けるの?』
『まだ決まってない』
『え?』
『明日の三者面談で決まる』
『家、出て行くの?』
『分かんない』
『いや、候補くらいあるでしょ。教えてよ』
兄は問題を解く手を止めないまま言った。
『決まってないこと話しても仕方なくない?』
……何言ってるんだ、このクソ兄。
決まってからじゃ遅いでしょ。
私が一人でイライラしている間にも、兄は淡々と問題を解いていく。
特に迷う様子もない。
推論や命題の問題になると、むしろ少し楽しそうだった。
決まった手順で、次々と処理していく。
しかも早い。
『ちょっと待って。
見直ししなくて大丈夫なの?』
兄が立ち上がろうとしたところで、私は思わず言った。
すると兄は、不思議そうな顔をする。
『何言ってるの?
SPIって時間勝負だよ?
本番は見直しなんてしてる余裕ないし、次々解かないと意味ないでしょ』
『知らんし。
私、まだ受けたことないから』
兄はそのままプリントを提出した。
教師は解答を確認しながら、少し眉を上げる。
「大坂、全問正解だ」
「まだ時間あるけど、別の問題やるか?
それとも他のことしてていいぞ」
すると兄が席を立った。
「進路指導室へ行ってもいいですか。
求人票のコピーを頂いて、親との会話に使いたいので」
教師は軽く頷く。
「いいぞ。
前に説明した通り、印刷は一人三枚までな」
「はい」
「あと、何を印刷したか申告して、明日学校へ持って来い。
先生の前でシュレッダーにかけること。
絶対なくすなよ」
「分かってます」
兄は少し間を置いて続ける。
「時間が掛かると思うので、そのまま11時の適性試験練習へ行きます。
終わったら帰宅します」
「おう、分かった」
兄は軽く会釈すると、そのまま教室を出た。
進路指導室へ向かう途中。
私は、ずっと気になっていたことを聞いた。
『家を出て行ったら、誰がお務めするの?』
兄は少しだけ黙ってから答える。
『次代を継ぐ人』
『……私、出来ないかもよ』
すると兄は、あっさり言った。
『大丈夫』
『何が』
『出来ないとか関係ないから』
兄は前を向いたまま続ける。
『強制的にやらされるから』
何を安心しろと言うのか分からず、
私は頭を抱えたくなった。
ご意見 ご感想を頂けたら嬉しく思います。




