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第9話 立派な経費

201号室の扉を開けた瞬間、神代くましろは思わず息を止めた。


「……ひどいですね。これは、法務というより完全に保健所の領域ですが……」


足の踏み場もないとは、まさにこのことだ。

空の栄養ドリンクの瓶、丸まった原稿用紙、脱ぎ散らかされた服。そして、部屋の中央のちゃぶ台には、まるで雪山のように「領収書」の束が積まれていた。


「お願い、死んじゃう。これ終わらないと私、脱税で豚箱行きなの……」


すめらぎは、ちゃぶ台に突っ伏して半泣きになっていた。

先ほどまでゴミ捨て場で凄んでいた面影は欠片もない。ただの、確定申告に追い詰められた個人事業主である。

神代は小さくため息をつき、ジャージの袖を捲ってパソコンの前に座った。


「会計ソフトは、大丈夫ですね。 ……では、僕が打ち込んだ方が早いので、皇さんはこの領収書の山を『月別』に分ける作業だけお願いします」


「え? おじさんが打つって、これ何百枚も……」


カタカタカタカタカタッ……!

皇が言い終わる前に、凄まじいタイピング音が部屋に響き渡った。

神代の指は、キーボードの上で残像を残すほどの速度で動いていた。日付、金額、勘定科目を一瞬で判別し、次々とセルに入力していく。


「……は? え? はやっ……」


「皇さん、手が止まっていますよ。次、三月分をお願いします」


「あ、はい……」


圧倒的な処理能力。かつて一流商社で、決算期の修羅場を幾度も乗り越え、数億の金が動く契約書を瞬時に捌いてきた神代にとって、フリーライター一人の経費入力など、準備体操にも満たない。


「……皇さん。この『キャバクラ・マリアンヌでの飲食代 8万円』というのは?」


神代の指がピタリと止まり、事務的な、ひどく冷たい声が響いた。


「あ、それ! 取材! 夜の街のリアルな生態を取材するためだから、立派な経費!」


「却下です。事業関連性が客観的に証明できない個人的な遊興費は、税務調査で否認されます。そもそも裏付けとなる記事が提出できなければ、悪質な所得隠しとみなされるリスクがあります」


「うっ……! お、おじさん、融通きかない……」


ピシャリと撥ね退け、神代は再び超高速でキーを叩き始めた。



一時間後。

雪山のように積まれていた領収書は、完璧な月別のスプレッドシートへと変貌を遂げていた。

皇は、信じられないものを見るような目で、美しいエクセルの画面と、ゼッケン姿の神代を交互に見比べた。


(……この人。ただのリストラ親父じゃない)


フリーライターとして、これまで多くの企業人を見てきた皇の直感が告げていた。

この処理速度。隙のない法的知識。そして何より、一切の私情を挟まずにルールを適用する、あの冷徹な「システム」のような眼差し。


(巨大企業の中枢で、こういう『実務』を完璧に回してきた本物のエリートだ。……なんでそんな化け物が、女子中学生用のジャージ着てこんなボロアパートに?)


皇が密かに戦慄していると、神代がふと顔を上げた。


「入力は終わりました。……ところで皇さん、さっきから気になっていたんですが」


神代は、ゴミの山の中から一枚のクリアファイルを引き抜いた。

そこには、皇が最近契約したという、Webメディア運営会社との『業務委託契約書』が入っていた。


「これ、目を通しましたか?」


「え? ああ、それ。今月仕事したところなんだけど、難癖つけられて原稿料の支払いを渋られてるのよね。……やっぱり、泣き寝入りするしかないのかな」


神代の目が、スッと細められた。

書類を一瞥いちべつした瞬間、彼の纏う空気が、ただの気弱なおじさんから「プロ」のそれに切り替わる。


「……悪質ですね。これ、『検収後、メディア側の裁量で報酬を決定・減額できる』という不当な条項が盛り込まれています。明らかに下請法(下請代金支払遅延等防止法)の『買いたたき』および『減額の禁止』に抵触します」


「し、したうけほう……?」


「相手はあなたが個人事業主で法律に疎いことにつけ込んで、最初からタダ働き同然で使い潰す気だったということです。……少し、パソコンを借りますよ」


神代は再びキーボードに向かうと、息をするような自然さで、新規のメール画面を開いた。


「……『貴社の対応は下請法第4条に抵触する恐れがあり、直ちにお支払いが確認できない場合、公正取引委員会への申告、ならびに法的措置を講じる準備がございます』と。……よし」


カタカタと小気味良い音を立てて、完璧な「法的な督促メール」が完成した。

一切の感情を排した、冷徹で論理的な文章。相手の逃げ道を完全に塞ぎ、企業が最も恐れる「公的機関への申告」を突きつける、法務のプロの文面だった。


「……っ」


皇は、画面に並ぶ美しい、けれど恐ろしい文字列を見て、思わず息を呑んだ。

暴力や脅しではない。ただ「法律」というルールを用いて、相手の喉元に冷たい刃を突きつける手腕。


彼女は、目の前の男に対して、明確な「畏怖」を感じていた。この男を敵に回せば、社会的な息の根を簡単に止められる、と。


「送信、完了しました。あはは、皇さん。おそらく今日の午後には、相手から泣きつくように振り込みと謝罪の連絡が来ますよ」


神代はいつもの卑屈な愛想笑いに戻り、ゼッケンの胸を張った。


「さ、これで僕の仕事は終わりです。約束通り、特上寿司をご馳走になっても?」


「……あ、あはは。もちろん。一番高いやつ、頼むわ」


皇は、震える手で出前アプリを開いた。

それはもはや「手伝ってくれたお礼」などという軽いものではない。この恐ろしいほど有能な実務家を、何があっても自分の「味方」に引き留めておくための、彼女なりの必死の「顧問料みかじめりょう」だった。





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