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第8話 まあ、誰でもいいや

朝の冷たい空気が、つんつるてんのジャージから覗く手首と足首を容赦なく撫でていく。

両手に指定ゴミ袋を提げた神代くましろは、ひだまり荘の軋む階段を、泥棒のように音を立てずに下りていた。


このアパートの住人たちは、基本的に他人に無関心だ。

壁が薄いため、隣から聞こえる生活音でなんとなく「どんな人間が住んでいるか」は察しているが、廊下ですれ違っても挨拶一つ交わさないのが暗黙のルールになっているらしい。


(よし。この時間なら誰にも会わずに済む……)


アパートの敷地の端にある、金網で囲まれたゴミ集積所。

そこに無事ゴミを置き、ふぅと息を吐き出した瞬間だった。


「……あー。朝日が目に刺さる……溶ける……」


背後から、地を這うような恨みがましい声が聞こえた。

神代がビクッと肩を揺らして振り返ると、そこにはフラフラと覚束ない足取りで歩いてくる女性がいた。


ボサボサに乱れた髪。度のキツそうな丸眼鏡。

着古して首元がダルダルに伸びたオーバーサイズのTシャツを着ており、歩くたびに肩からずり落ちて、無防備すぎる白い肌と下着の肩紐が丸見えになっている。素足に突っかけたサンダルを引きずり、手には中身がパンパンに詰まった黒いゴミ袋が握られていた。


(出た。白石さんが言っていた『ゾンビ』だ。目を合わせないようにして、部屋に戻ろう)


神代はそっと会釈だけして、その場を離れようとした。

だが、すれ違いざま、彼女がゴミ集積所に放り投げようとした黒い袋から、「カチャリ」と瓶と缶がぶつかる鈍い音がした。

その瞬間。

神代の脳内で、法務・コンプライアンス担当としての警報がけたたましく鳴り響いた。


「ま、待ってください!」


「……ひゃっ!? な、なに!?」


神代は反射的に、女性の手から黒いゴミ袋を奪い取っていた。

驚いて尻餅をついた女性の無防備な胸元がさらに大きく開いたが、今の神代の目はそこには向いていない。彼は袋の口を開け、その中身を瞬時にスキャンした。


「やっぱり……! 缶、ビン、それにプラスチック容器と可燃の紙クズが完全に混在しています。これでは回収業者が持っていってくれません。それに、このスプレー缶! 穴を開けずに捨てるのは、清掃車の火災事故に直結する重大なルール違反です!」


「……は? なに……急に……」


「すぐに分別しますから、少しお待ちを!」


神代は、ゴミ集積所の隅にしゃがみ込むと、凄まじいスピードで女性のゴミの仕分けを始めた。

手首と足首を丸出しにして、胸に『白石』というゼッケンをつけた大男が、一切の無駄のない動きで「可燃」「不燃」「資源」を仕分けていく。

その手つきは、かつて数万枚の契約書を整理してきた「プロの事務屋」のそれだった。

わずか三分。

混沌としていた黒い袋の中身は、自治体のルールに則り、完璧に美しい三つの袋へと生まれ変わった。


「……ふぅ。これでよし。スプレー缶のガス抜きは、後で僕が安全な場所でやっておきますから」


神代が額の汗を拭い、満足げに振り返る。

そこには、尻餅をついたまま、丸眼鏡の奥で目を瞬かせる女性の姿があった。


「あの、お怪我はありませんか? すみません、つい職務質問のような真似をしてしまって。僕、こういうルール違反を見ると、体が勝手に動いてしまう癖がありまして」


神代が深く腰を折り、申し訳なさそうに頭を下げる。

女性はよろよろと立ち上がると、ずり落ちたTシャツの襟を直すこともせず、神代の胸元をジッと見つめた。


「『白石』……ああ。隣の202号室の子の苗字だ。あんた、もしかして最近夜中に壁の向こうから聞こえてくる『得体の知れない居候』?」


「え。あ、はい。神代と申します。……あの、壁が薄くてご迷惑をおかけしております」


「ふーん。まあ、誰でもいいや。私、201号室のすめらぎ。一応、フリーライターやってるんだけど」


皇は、神代の事情など微塵も興味がないという風に、欠伸をしながら名乗った。

他人に踏み込まない。それがこのアパートの流儀だ。

しかし、彼女の濁った目に、突如としてギラリと猛禽類のような光が宿った。


「ねえ、おじさん。あんた、数字の計算と、領収書の整理はできる?」


皇は、神代の手首をガシッと掴んだ。

そのまま距離を詰められ、彼女の柔らかい身体の一部が神代の腕に押し当てられる。だが、皇自身に「男を誘惑している」という自覚は一切ない。ただただ、目の前の都合のいい労働力を逃すまいとする必死さだけだった。


「ちょっ、皇さん!? 近いです、服がはだけてますから!」


「今月末が、確定申告の期限なの。私の部屋、去年の春からの領収書と経費の書類が、あのゴミ袋と同じ状態で散乱してるのよ。税務署に殺される前に、なんとかして」


「ええっ!? 一年分の領収書を、今からですか!?」


「報酬は、今日の昼飯。出前の特上寿司を奢る。……手伝ってくれないなら、あんたが毎晩隣の部屋で女子高生と何してるか、あることないこと記事にしてネットに流すわよ」


「それはただの脅迫じゃないですか!」


神代は悲鳴を上げたが、同時に『特上寿司』という魅惑の四文字が、胃袋をギュルリと鳴らした。

今朝、紬に立派なお弁当を持たせたことで、実は自分の分の朝食は残り物の一口しかなかったのだ。


「……引き受けましょう」


神代の表情から、情けなさがスッと消え去った。

それは、凄腕の法務部次長が、特大の火消し案件に臨む時の「プロの顔」だった。胸元の『白石』ゼッケンが、朝日を浴びて無駄に輝いている。


「ただし。僕は経費の仕分けには厳しいですよ。私的な飲み代は、一切経費には落としませんからね。それと、まずはそのだらしない服を着替えてください。目の毒です」


「……うっ。手厳しいわね。まあいいわ、とにかく部屋に来て」


こうして、神代の「ひだまり荘」での新たなミッションが幕を開けた。




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