第7話 あったかいよ
朝の五時。
ボロアパート「ひだまり荘」の朝は、一階の大家が叩きつけるような音で開ける雨戸の響きから始まる。姿はまだ見ていないが、地鳴りのようなその振動は二階の202号室まで容赦なく伝わってくる。
神代は、ふすまの隙間から差し込む光の筋で目を覚ました。
昨夜、押し入れの中で声を殺して泣いたせいか、瞼が重い。けれど、不思議と頭は冴えていた。
(……信じてもらえたことが、こんなに心強いなんてな)
神代はそっと押し入れを抜け出した。
隣では、紬がまだ布団の中で丸まっている。
一流商社の法務部にいた頃なら、もう満員電車に揺られている時間だ。今の彼にあるのは、手首も足首も丸出しのジャージと、これから始まる「何者でもない一日」だけ。
神代は、静かに台所へと向かった。
昨夜、獅子道からもらった牛肉が少しだけ残っている。
(白石さん、いつも期限切れのパンばかり食べているみたいだし……)
神代は、ジャージの袖を捲り上げた。
胸元の『白石』のゼッケンが、今の自分に許された唯一の「所属」のように思えた。
神代の家事能力は、独身生活の中で磨かれた「効率化」の産物だった。
限られた予算と材料で、いかに最高のパフォーマンスを出すか。彼は獅子道からもらった牛肉を細かく刻み、冷蔵庫にあったしなびたネギを救出し、甘辛い「しぐれ煮」を作り始めた。
包丁の音を立てないよう、細心の注意を払う。
部屋にあるのは古い電気鍋一つ。だが、温度管理さえ間違えなければ、立派な一品になる。
神代はさらに、紬が学校へ持っていけるように、棚の奥で見つけたプラスチックのタッパーを取り出した。
「……せめて、お昼もしっかり食べてほしいな」
ご飯を詰め、その上にしぐれ煮をたっぷりと乗せる。彩りに、少しだけ焦がした卵焼きを添える。
接待で使う豪華な仕出し弁当とは比べ物にならないが、神代はそこに、これまでの人生で一度も込めたことのない「祈り」のような感情を込めていた。
やがて、布団がガサリと鳴り、紬が起き出した。
「……ん。……おじさん、何してるの」
「あ、おはようございます、白石さん」
神代は振り返り、穏やかに微笑んだ。
「獅子道さんに頂いたお肉が少し残っていたので、朝食を作ってみたんです。あと、もしよろしければ……これ、お弁当に」
テーブルの上に置かれたのは、炊きたての湯気が上がる白米と、牛肉の煮物。
そして、その横には丁寧に包まれたタッパー。
紬は目をこすりながら、寝癖のついた髪をかき上げた。
鼻をひくつかせ、不思議そうに料理を見つめる。
「……焼肉?」
「いえ、朝から焼肉は重いかと思いまして。しぐれ煮にしてみました。お口に合えばいいのですが」
紬は無言で席に着き、箸を取った。
一口。牛肉と、出汁の染みたご飯を口に運ぶ。
「…………」
「……どうでしょうか」
紬は黙ったまま、二口、三口と箸を動かした。
そして、ゆっくりと茶碗を置き、俯いた。
「……美味しい」
その声は、微かに震えていた。
三年前、両親がいなくなってから、彼女が一番遠ざけられてきた「誰かが作ってくれた、まともな食事」。
五日前のパンを「死なないから」と食べていた彼女の強さが、どれほどの孤独の上に成り立っていたのか。神代は視界が滲むのを感じ、慌てて目を逸らした。
「……あったかい。これ、すごく……あったかいよ」
紬の目から、一粒の涙がこぼれ、ご飯の上に落ちた。
神代は何も言わず、ただ彼女が食べ終えるのを待った。
信じてもらえることの喜び。そして、誰かに必要とされることの温かさ。
35歳になってようやく、彼は「人間として生きる」ことの本当の意味を知ったような気がした。
紬は綺麗に完食し、タッパーをリュックに入れた。
学校へ行く準備を整え、玄関でローファーを履く。
「……おじさん」
「はい、何でしょうか」
「昨日、おじさんが泣いてたの、知ってるよ」
神代の心臓が跳ねた。
だが、紬は振り返らずに、扉に手をかけた。
「……でも、いい大人が泣くのは、それだけ本気で生きてる証拠だって、誰かが言ってた気がする。……仕事、焦らなくていいから。まずは、そのジャージ、なんとかしなよ」
「……はい。そうですね。まずは身なりから整えます」
「それと、もう一つ」
扉に手をかけた紬が、ふと思い出したように振り返った。
「今日の最初の仕事、ゴミ出しでしょ? もし集積所で、隣の201号室の女の人に会っても、絶対に関わらないでね」
「え? 201号室……ですか。一階の獅子道さん以外にも、ヤバい人がいるんですか?」
「ヤクザよりタチ悪いかも。フリーライターやってる『皇』って人なんだけど。いっつも徹夜明けのゾンビみたいな顔して徘徊してて、ガード緩いし部屋もゴミ屋敷なの。あんたみたいな『便利そうなおじさん』が見つかったら、絶対面倒な雑用押し付けられるから。目ぇ合わせちゃダメだよ」
「は、はいっ! ゾンビには近づかず、目を逸らしてゴミを置きます!」
「うん。……じゃ、行ってくる。お弁当、ありがと」
バタン、と扉が閉まり、廊下にローファーの足音が響いて消えていく。
神代は、彼女のいなくなった部屋に一人残り、空になった茶碗を手に取った。
「……よし」
神代は、自分の胸元のゼッケンを指でなぞった。
今の自分にできることを、一つずつ片付けていく。
それが、自分を拾ってくれた少女への、唯一の恩返しだ。
「まずは……ゴミ出しだな。201号室のライターさんには、絶対に見つからないように……」
彼は、部屋の隅にまとめられたゴミ袋を手に取った。
フラグ回収率…




