第6話 ただいま、ですね
「102号室」の宴の余韻を背負い、二人は二階へと続く軋む階段を上がった。
202号室の前。神代は扉を開ける前に、一度立ち止まった。
何かを言いかけて、結局、いつものように深く頭を下げた。
「……えーと、お邪魔します」
「何それ。お邪魔します、じゃないでしょ。ここ、もうあんたの家なんだから。家賃三万、発生してるんだし」
紬は呆れたように鍵を開け、先に中へと入った。
神代は一瞬、その「家」という言葉の重さに立ちすくんだ。
昨日までは雨の中、誰の邪魔にもならない場所を探して彷徨っていた。そんな自分に、帰る場所がある。
「……ただいま、ですね。あはは、なんだか変な感じです」
「……お帰り。さっさと入りなよ、冷えるから」
部屋に戻ると、窓から差し込む月光が、古びた畳の焦げを白く照らしていた。
神代は押し入れの前に正座し、紬は制服をハンガーにかけ、いつものスウェットに着替え始めた。神代は慌てて視線を逸らし、自分の名刺入れの角を見つめる。
「あの、白石さん」
「何?」
「改めて、ありがとうございます。獅子道さんのお肉も凄かったですけど……僕、一番心に残っているのは、目が覚めた後に白石さんが作ってくれたあのお粥なんです」
「……お粥?」
「はい。あのお粥の温かさが、僕の折れかけていた心に火を灯してくれました。あの時、白石さんが助けてくれなかったら、僕は今頃どこかで消えていた。あはは、大袈裟じゃなく、本当なんです」
神代の声は、少しだけ震えていた。
一流商社のエリートだった頃の自分なら、お粥一杯にここまで感謝することはなかっただろう。でも、全てを失ったあの雨の夜、差し出されたその器は、彼にとって救済そのものだった。
紬は、自分の布団の上に座り、膝を抱えた。
「……変な人。お粥なんて、お米と水だけだよ」
「それでも、です」
神代はそこまで言って、言葉を濁した。
数秒の沈黙。古い時計の刻む音だけが、部屋の気まずさを埋めるように響く。
彼は何度も口を開きかけては閉じ、最後には少しだけ声を落として尋ねた。
「あの……あはは、あまり深く踏み込むつもりはないんですけど。白石さんの、その……ご両親は、今、どちらに?」
紬は膝を抱える腕に、少しだけ力を込めた。
神代は「あ、やっぱり今の、なしにしてください!」と慌てて手を振ったが、紬は静かに口を開いた。
「……いないよ。三年前かな。ある日、普通に仕事に行くみたいに出ていって、そのまま帰ってこなかった。……いわゆる、蒸発」
神代は呼吸を止めた。
「あはは」と笑うことすら忘れて、少女の小さな横顔を見つめた。
「……あ。申し訳ありません、そんなことを聞いてしまって」
「別にいいよ。憎んでいないわけじゃないけど、憎むのってお腹空くからさ。目の前のことを一つずつ片付けるしかないでしょ。私は、ただ立ってるだけだよ」
「……その『立っている』ことが、どれだけ凄いことか。僕なら、きっと誰かを恨んだり、絶望したりして、立ち上がることすらできなかったと思うんです。あはは、現に僕は、冤罪一回で死にかけてましたから」
神代は、もう一度深々と頭を下げた。
「僕、明日からはハローワークに行ったり、再就職のために動きますね。まずはこの格好をなんとかしないといけませんが……あはは。家事も完璧にやりますから、白石さんは学校に集中してください。……白石さんが、一人で立ち続けなくてもいいように」
「……。仕事、見つかるといいね」
紬の声は、いつも通り低くて冷めたものだった。
けれど、そこには突き放すような拒絶はなかった。
紬は、押し入れのふすまを指差した。
「さっさと寝なよ、おじさん。明日、ゴミ出しお願いね」
「はい! ありがとうございます。おやすみなさい、白石さん」
神代は、亀のような動作で押し入れの中へと這い入った。
半畳の、暗い空間。
カチャ、と部屋の電気が消えた。ふすまの隙間から、わずかな月明かりが差し込んでくる。
「……ねぇ、おじさん」
暗闇の中から、紬の声がした。
「はい。どうしました?」
「……お肉、美味しかった?」
「はい。震えるほど美味しかったです。でも、やっぱりあのお粥の方が、もっと温かかったですよ」
「……お世辞、下手すぎ」
「あはは、本当なんですけどね」
少しの沈黙。
神代は、暗闇の中で天井を見つめていた。
すると、ふすまの向こうから、独り言のような声が届いた。
「……横領なんてするような人には、見えないけどね。あんた、嘘つくの絶望的に下手だし」
神代は、目を見開いた。
一流商社の同僚も、上司も、誰も信じてくれなかった。
弁解すればするほど、彼らは「証拠があるんだ」と嘲笑った。
理由もわからず盤面の外に弾き飛ばされた自分を、昨日拾ったばかりの少女が、「嘘が下手だから」という、ただそれだけの理由で信じてくれた。
「…………っ、あ」
喉の奥が、熱い塊で塞がった。
神代は声を殺し、布団を顔まで引き上げた。
あはは、と笑って誤魔化すこともできなかった。
溢れ出した涙が、耳の横を通って枕に吸い込まれていく。
温かい。今日食べた肉よりも、どんな高級料理よりも温かい言葉だった。
その言葉一つで、彼は自分がまだ、この世界の盤面に駒として戻れるかもしれないという希望を、ようやく抱くことができた。
ふすまの向こうで、紬はもう眠りについているのか、それとも今の嗚咽を聞いていたのか、それは分からない。
けれど、押し入れの暗闇の中で、神代誠司は初めて、自分が生きていることを許されたような気がしていた。
静かな夜が、ゆっくりと更けていく。
二人の奇妙な共同生活は、この小さな「信頼」から、本当の意味で動き始めていた。
たった一人でも信じてくれる人がいる…




