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第5話 くんくん。何、この匂い

夜の十一時を回った頃。

白石しらいし つむぎは、バイト先のコンビニで「廃棄」になった期限切れ寸前の弁当を抱え、重い足取りで「ひだまり荘」の前についた。


「……はぁ。疲れた」


女子高生らしい感傷に浸る余裕なんて、今の彼女にはない。あるのは、今日のバイト代がいくらで、明日の光熱費をどこから捻出するかという、ひどく現実的な計算だけだ。

ふと、押し入れに放り込んできた「居候」のことが、頭をよぎる。


(あのおじさん、大人しく掃除でもしててくれたかな。……まあ、逃げ出す根性もなさそうだけど)


神代くましろという男は、良くも悪くも「社会の枠組み」の中で生きてきた人間だ。行き場を失ったとはいえ、彼がこのボロアパート以外のどこかで生きていけるとは思えない。彼女が拾ったのは、盤面から弾き飛ばされた後、どこへ転がればいいかも分からない迷子のような男だった。


「……くんくん。何、この匂い」


一階の廊下に足を踏み入れた瞬間、紬の足が止まった。

ひだまり荘の廊下は、いつもなら古い木材の湿気た匂いと、誰かがこぼした油のような生活臭が充満している。だが、今は違った。

鼻腔をくすぐるのは、脂の乗った肉が、熱い鉄板の上で弾ける暴力的なまでに香ばしい香り。そして、安物ではない醤油とニンニクが混ざり合った、食欲を直接殴りつけてくるような匂いだ。


(これ……焼肉? 誰か、ボーナスでも出たのかな?)


ありえない。このアパートの住人に「ボーナス」なんて言葉は無縁だ。

匂いの主は、紬が住む二階ではなく、一階の奥――「102号室」から漏れていた。

今朝、出がけに自分が「絶対に近づくな」と念を押した、アパート最恐の住人・獅子道ししどうの部屋だ。

さらにそこからは、低く響く男の笑い声と……。


『あはは、獅子道さん、これすごく美味しいです!』


聞き覚えのある、情けなくも嬉しそうな声が聞こえてくる。


(……嘘でしょ!? 捕まった!?)


紬の血の気が、一気に引いた。


「目が合っただけで因縁をつけられ、借金の保証人にされる」。近所で広まる噂が脳裏にフラッシュバックする。

あの頭のおかしいエリート崩れのおじさんが、よりによって、このアパートで一番踏んではいけない地雷を全力で踏み抜いたのだ。


「獅子道さん、すいません! その人、うちの……っ!!」


紬は半ばパニックになりながら、弁当を落としかける勢いで102号室の扉をバンッと開け放った。

最悪、土下座してでも連れ戻さなきゃ。そう覚悟して飛び込んだ彼女が目にしたのは――人生で二度と見ることがないであろう、あまりにもシュールな光景だった。


「……あ、お帰りなさい、白石さん! お疲れ様です、あはは!」


そこには、つんつるてんのジャージ姿で、顔をほんのり赤くした神代がいた。

彼は、卓上コンロで焼かれた分厚いカルビを器用に箸で掴み、ハフハフと幸せそうに頬張っている。五体満足どころか、かつてないほど血色が良い。


「おう、紬か。遅かったな。お前のところの居候、最高だぞ」


獅子道は上機嫌で、神代のコップに安い焼酎をなみなみと注いでいた。

その傍らには、神代がこの数時間で書き上げたのであろう、整然とした文字が並ぶ『内容証明郵便』の草案が置かれている。


「え……何。何が起きてるの、これ。私、朝あんなに近づくなって言ったのに……なんで一緒に肉焼いてんの!?」


紬は呆然と立ち尽くした。

今朝、廊下に出るのすら怯えて震えていたはずの男が。

アパートで最も恐れられ、近寄る者すらいなかった獅子道と、膝を突き合わせて酒を酌み交わしているのだ。


「あはは……。あの、白石さん、これ見てください。獅子道さんに頂いたお肉です。……白石さんが今朝くださったあのパンで、僕、ようやく脳が動くようになりまして。その恩返しといいますか、獅子道さんの事務作業を少しだけお手伝いしたんです。そうしたら、こんなご褒美を……っ」


神代は、涙目になりながら肉を咀嚼した。

彼にとって、今朝の五日前のパンは「命を繋ぎ止めるための糧」であり、今この瞬間の肉は「人間としての尊厳を取り戻すための祝杯」だった。


「紬、お前も食え。このおっさん、マジでキレ者だ。俺が悩まされてたクソったれな書類を、ものの数十分で『紙屑』に整理しやがった」


獅子道が、自分のことのように自慢げに笑う。

神代が作った回答書には、消費者契約法の具体的な条項や、過去の判例を引用した、ぐうの音も出ない論理が詰め込まれていた。獅子道にとっては魔法の呪文に見えたそれも、神代にとっては「当然の事務処理」でしかない。


「……信じられない。おじさん、あんた……」


紬は、脱ぎかけの靴のまま固まっていた。

このアパートの住人たちは、基本的に訳ありの人間たちが集まっている。付かず離れずの距離を保ち互いのプライバシーには踏み込まず。

それが、たった数時間で。


「白石さん、そんなところで突っ立っていないで、どうぞ。あ、獅子道さん、白石さんの分の取り皿、僕が用意しますね。……あはは、僕、居候ですから雑用は任せてください」


神代はいつものように、でも少しだけ自信を取り戻したような顔で、手際よく肉を焼き、白石のために席を空けた。

その手首からはジャージの袖が足りず、胸元には相変わらず『白石』のゼッケンが輝いている。


(この人……本当に変な人)


紬は呆れたように大きくため息をつき、同時に、胸の奥で張り詰めていた緊張がドッと解けるのを感じた。

昨日の雨の中、死にかけの犬を拾うような気持ちで連れて帰ってきた男。

彼はただの「負け犬」ではなく、その牙の研ぎ方を知っている、不思議な生き物だった。


「……お肉、冷めるから。私も混ぜてもらうね」


紬は、バイト帰りの重いリュックを畳に下ろした。

煙たい部屋、安い酒、そして焼ける肉の音。

関わろうと思わなかった住人の部屋で、二人の楽しそうな声が耳に入ってくる。別世界を見てるような、不思議な光景。それが何を意味してるのか、今はまだわからない。けど……。


「あはは、白石さん、このタレ、凄く美味しいですよ! 獅子道さんのこだわりだそうです!」


「うるさい、おじさん。肉、焦げてるよ」


賑やかな声が、遅くまでひだまり荘を包んでいた。


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