第4話 あぁ? どういうことだ
獅子道に促され、神代は恐る恐る102号室の敷居を跨いだ。
部屋の中は、予想通り……いや、それ以上に混沌としていた。
ツンと鼻を突く安煙草の脂の匂い。床に転がる空き缶と、山積みの週刊誌。
そして部屋の中央には、不釣り合いなほど立派な黒塗りのデスクが鎮座している。
「……あ、あはは。機能的と言いますか、男の隠れ家といった趣ですね」
「いいから座れ、おっさん。……なんだ、その面は」
獅子道が眉間に皺を寄せ、神代を指差した。
つんつるてんのジャージ、胸元の『白石』。パイプ椅子に腰を下ろすと、膝が不自然に突き出し、さらに情けなさが強調される。
「ひぇっ、失礼します! すみません、今はこれが僕の正装なもので……あはは」
神代は引きつった笑いを浮かべながら、デスクに置かれた一枚の書面に目を落とした。
その瞬間。彼の脳内で、長年培われた「法務部次長」としての回路が、火花を散らして接続された。
(……フォントの不統一。強引な文言。そして、この条項は……)
神代の瞳から、卑屈な色が消えた。
それは、数千億の契約の成否を「言葉の定義」一つで決めてきた、プロの眼光だった。
「……。獅子道さん、これ、なかなか悪質な雛形を使ってますね」
「あぁ? どういうことだ」
獅子道が身を乗り出し、デスクがギシリと鳴る。
神代は、剥き出しの脛を隠すことも忘れ、書類の一点を指差した。
「この『管理運営費の遡及適用』という条項ですが、そもそも合意していない過去分を一方的に請求すること自体、法的に無効になる可能性が高いです。加えて、これ。参照している規約番号が実際には存在しません。……明らかに、相手は獅子道さんが中身を読み飛ばすと踏んで、法律用語で煙に巻こうとしています」
「チッ、舐めやがって……。サインしたら終わりか?」
「いえ、仮にサインしていても、これは消費者契約法の不当条項に該当する可能性が極めて高いですね。事業者の損害賠償責任を不当に免除したり、消費者の利益を一方的に害する条項は、この法律の第10条などで無効と判断されます。つまり、法的には『紙屑』と同じです」
神代の声には、いつもの弱腰な響きがなかった。
事実を淡々と、かつ冷徹に突きつける、かつての「守りの要」としての口調。
「このまま無視しても実務上は問題ありませんが……。念には念を入れて、一度こちらから内容証明郵便で拒絶の意思を表示しておいた方が安全です。相手に『こいつの後ろにはプロがいる』と思わせれば、二度とこんな不細工な真似はしてきませんよ」
「……お前」
獅子道が、毒気を抜かれたように神代を見つめた。
つんつるてんの袖、他人の名前が書かれたゼッケン。
あまりに滑稽な外見の男が、口を開いた瞬間、一流の法律屋として目の前に立ちはだかっている。
「面白いじゃねぇか、神代。……よし、その『内容証明』ってやつを書け。お前が書いた文面に、俺の名前を載せて送りつけてやる」
「え……。あ、あはは、僕が書いていいんですか? このジャージ姿の無職が書いた文章ですよ?」
「文句ねぇよ。お前、その格好で中身がそれって……ギャップがエグすぎて逆に怖えよ」
獅子道はニヤリと不敵に笑うと、デスクの引き出しから上質な万年筆を放り投げた。
「書け。書き上げたら、今日の晩飯は俺が奢ってやる。紬のところで何食ったか知らねーけど、まともな肉を食わせてやるよ」
「……あはは。ありがとうございます。まともな肉、楽しみです」
神代は、渡されたペンを握り直した。
かつては数億円を動かすために握ったペン。
今は、ボロアパートの隣人を守り、一食の肉を得るために。
胸元には『白石』。足首からは脛毛。
それでも、彼がこれまで積み上げてきた「言葉という武器」は、このどん底の場所でも、確かに、鋭利に光を放ち始めていた。
「……では、相手が二度と獅子道さんの名前を見たくなくなるような、完璧な回答書を仕上げさせていただきますね」
神代誠司の、新しい世界での「初仕事」。
それは、ボロアパートの煙たい一室で、静かに、しかし力強く産声を上げた。
怖い世の中でふ




