第3話 脛毛が汚ねぇんだよ
紬が学校へ出かけてから、数時間が過ぎた。
神代は、四畳半の真ん中で立ち尽くしていた。「通報されるのが怖い」という泣き言に、彼女は出かける間際、こう吐き捨てていったのだ。
『自意識過剰だよ、おじさん。このアパートの連中には、あんたのことはもう話してあるから。……「一流商社のエリート様が、冤罪で一文無しになって、私の押し入れに住み始めた」ってね。みんな、あんたがいつ這い出してくるか楽しみにしてるよ』
その言葉を思い出し、神代は天を仰いだ。
(……白石さん。情報漏洩のスピードが、うちの法務部のコンプライアンス窓口より早いですよ……)
彼女にとって、この「神代誠司」という存在は、家賃を折半するための「資産」であり、同時にアパートの退屈な日常を彩る「格好のネタ」でしかなかったのだ。
神代は、窓際に目をやった。
そこには、彼が昨日まで着ていた「鎧」が、無残な姿で吊るされていた。
イタリア製の高級生地で作られたオーダーメイドのスーツ。数日間の雨と泥を吸い込み、昨夜、紬によって風呂場で「洗濯機にかけられないから」と冷水で適当に丸洗いされたそれは、今や見る影もない。
型崩れなんてレベルではない。生地はボコボコにうねり、泥のシミは完全に落ちきらず、窓からの隙間風に吹かれて「元・高級スーツの死体」のように虚しく揺れている。
(……あはは。あれを着て歩く方が、今のジャージ姿よりよっぽど不審者ですよね)
乾く気配すらない。というか、乾いたところで二度と袖を通せる状態には戻らないだろう。
今の彼にある選択肢は、この手首も足首も丸出しの「つんつるてん」な中学女子用ジャージだけだった。
神代は、袖の足りないジャージをさらに捲り上げ、流し台で電気鍋を磨き終えた。
次は、共有スペースの確認だ。
誰の邪魔にもならず、波風を立てずに生きるためには、まず情報を集めなければならない。どの部屋に誰が住み、どの時間帯に廊下が無人になるのか。
彼は、大きく息を吸い込み、ゆっくりと扉を開けた。
「……失礼します」
廊下へと足を踏み出す。
一歩。ミシッ、と床板が悲鳴を上げた。
共有廊下は昼間だというのに薄暗く、壁のベニヤ板は剥がれかけ、天井からは裸電球が心細そうにぶら下がっている。
神代は、壁沿いを這うように進んだ。
つんつるてんのジャージから覗く脛毛が、冷たい風になびく。
胸元の『白石』というゼッケンが、薄暗い廊下で妙に白く浮き上がっていた。
(101、102、103……。まずは一階の構造を……)
脳内でフロア図を描きながら、102号室の前を通り過ぎようとした、その時だった。
カチャリ、と鍵が外れる重い音が響き、扉が凄まじい勢いで開いた。
「おい、コラァ! いつまでコソコソ歩いてやがる!」
「ひぇっ! あ、あはは、すみませっ……!」
神代は反射的に、腰が90度に折れるほど深いお辞儀をした。
一流企業の法務部で、数々の修羅場を「謝罪と低姿勢」で切り抜けてきた身体は、恐怖よりも先に、その生存本能を体現した。
そこに立っていたのは、頭に黒いバンダナを巻き、派手なアロハシャツを着た男だった。
日に焼けた肌、鋭すぎる眼光。そして何より、右腕のアロハの袖口から、毒々しい刺青の断片が覗いている。
神代の脳内にある「関わってはいけないリスト」の最上位に位置する風貌。
男――獅子道は、神代を上から下まで、ゴミを見るような目で見つめた。
視線が、神代の胸元の『白石』というゼッケンでピタリと止まる。
「……お前か。紬が言ってた『押し入れの居候』ってのは。35にもなって、女子高生の名前背負って何してやがる、あぁ?」
「は、はい。神代と申します。あはは……白石さんのご厚意で、その……居候をさせていただいておりまして。……えっと、僕のこと、聞いているんですか?」
「あぁ!?聞きたくもねーのに噂で流れてきたんだよ。昨日の夜にどこぞの商社のエリート様が、横領でクビになって、雨の中で死にかけてたところを拾ってやったとかなんとかよ」
神代は、遠い目をした。
(……白石さん、やっぱり僕のこと『獲物』か何かだと思ってますよね、あは…、はぁ……)
「プッ……クハハハハ!」
獅子道が突如、腹を抱えて笑い出した。
廊下に、彼の野太い笑い声が響き渡る。
「にしても……お前、なんなんだよその格好!ネタにしてもすべりすぎだろ、 鏡見てねぇのかよ! 脛毛が汚ねぇんだよ、おっさん!」
「あはは……ですよね。自分でも、どうかしていると思います。ただ、今の僕にはこれしか着るものがなくて。……不快な思いをさせてしまったなら、今すぐ押し入れに引っ込みますので……」
神代は、獅子道の笑い声に合わせて必死に愛想笑いを浮かべた。
だが、内心では冷や汗が止まらない。
この男、笑っているが、漂っている空気は「獲物をいたぶる肉食獣」のそれだ。
「面白いじゃねぇか。おい、神代」
獅子道が、ぴたりと笑いを止めた。
その瞳が、獲物を射抜くような鋭さに変わる。
「お前、商社で『法務』をやってたってのは本当か? 契約書とか、その手のややこしい書類に強いんだろ?」
「あ、はい……。一応、プロ、でしたので。あはは……まあ、その知識を活かした結果が、この押し入れなんですけどね」
神代が自嘲気味に笑うと、獅子道はニヤリと口角を上げた。
その表情を見た瞬間、神代の背筋に冷たいものが走った。
「ちょうどいい。俺の部屋に来い。断ったら、そのゼッケンごと肋骨をへし折るからな」
獅子道の笑顔が、明確な「脅迫」に変わった。
神代には、断るという選択肢など最初から用意されていなかった。
一流商社の次長職という肩書きを失い、社会の盤面から消し飛ばされたはずの「法務の知識」が、皮肉にも、この無法地帯で最初の「利用価値」として見出されてしまったのだ。
「……あはは。もちろんです。僕にできることなら、何なりと」
神代は、もう一度深く頭を下げた。
つんつるてんのジャージ。
他人の名前が書かれたゼッケン。
そして、剥き出しの脛毛。
あまりにも情けない姿のまま、神代は獅子道の待つ「102号室」の扉へと、一歩を踏み出した。
スベりました




