第2話 あ、起きた?
目が覚めると、視界は真っ暗だった。
鼻をつくのは、古い木材の湿った匂いと、防虫剤のツンとした香り。それと、微かに残る昨夜のお粥の温かい余韻。
神代 誠司は、四角く区切られたその狭い空間で身をよじった。
背中に当たるのは、煎餅のように薄い布団。指先が触れるのは、ざらついたベニヤ板の壁。
自分が一流商社の次長職から、四畳半の「押し入れ」の住人へと転落したことを、脳がようやく現実として処理し始める。
「……おはようございます」
自分の声が狭い空間で反響する。
神代は、ふすまを数センチだけ、慎重に引いた。
そこから差し込む朝の光は、彼が昨日まで見ていたタワーマンションの寝室のそれとは違い、埃の粒子をキラキラと反射させていた。
「あ、起きた?」
部屋の中央では、白石 紬が、学校へ行く準備をしていた。
彼女は神代の方を一度も振り返らず、壁に掛かった小さな鏡に向かって、短いネクタイを整えている。
紺色のブレザー、チェックのスカート。その立ち姿はどこにでもいる女子高生だが、その所作には、迷いも無駄も一切なかった。
神代は、自分が這い出すことで彼女の登校を邪魔しないか、一瞬逡巡した。
だが、尿意と喉の渇きには勝てない。彼は「失礼します」と小声で断りながら、亀のような動作で押し入れから畳の上へと這い出した。
その姿は、昨夜の暗がりで見るよりもいっそう、目を覆いたくなるほど滑稽だった。
神代が着ているのは、紬が「適当に使って」と貸してくれた、彼女の中学時代のジャージだ。
35歳の男が着るには、絶望的にサイズが足りていない。
袖は肘の少し下で止まり、ズボンの裾も脛のあたりまでしかない。いわゆる「つんつるてん」の状態だ。
さらに悲惨なのは、胸元に『白石』と大きく書かれた布製のゼッケンが、洗濯で端が剥がれかけたまま残っていることだった。
「あの、白石さん。……改めて、本当にすみません。こんな格好で、貴女の部屋を占拠してしまって」
神代は、畳に手をついて深々と頭を下げた。
ジャージの背中がパツパツに張り、今にも「バリッ」と嫌な音がしそうだ。
「別に。昨日から言ってるけど、家賃さえ払ってくれればいいから。……あと、その格好…、ぷっ、通報されないように気をつけてね」
「……おっしゃる通りです。自分でも、鏡を見るのが怖いです」
神代は、引きつった笑顔を浮かべた。
エリートとして生きてきたプライドなんて、雨の中に捨ててきたつもりだったが、自分の名前でもない『白石』というゼッケンを胸に、脛毛を丸出しにして座っている現状には、流石に乾いた笑いしか出ない。
カチャリ、とローファーを履く音が狭い玄関に響いた。
紬は重そうなリュックを肩にかけ、扉を開ける。
「朝ごはんは、そこのテーブルに置いといた。パン一袋。……消費期限は五日前だけど。後でお金回収から」
紬が事も無げに告げたその言葉に、神代は一瞬、喉の奥が引きつるのを感じた。
五日前。
食品メーカーの法務にも関わっていた彼からすれば、それは「ただの数字」ではない。企業の信頼を揺るがし、回収騒ぎが起きてもおかしくないレベルの、立派なデッドラインだ。
「いっ……。あ、ありがとうございます。十分すぎます」
反射的に感謝の言葉が口をついた。
たとえそれが、法的にアウトな食品であったとしても。
「あと、鍵。テーブルに置いてあるから。失くしたら合鍵作る金なんてないからね。じゃ、行ってくる」
「はい。いってらっしゃい、白石さん。お気をつけて」
バタン、と重い鉄の扉が閉まり、外から鍵をかける音が響いた。
途端、四畳半の部屋に濃密な静寂が降りてくる。
神代は、しばらくの間、正座したまま動けなかった。
つんつるてんのジャージの膝から覗く自分の脛が、情けなくて直視できない。
彼は重い腰を上げ、膝を擦りながらテーブル――という名の、脚の折れかかった古い折りたたみ机に向き合った。
そこには、透明なポリ袋に入った、何の変哲もない安売りのパンが置かれていた。
印字された日付を確認する。……確かに、五日前にその「命の保証」は切れていた。
神代は、震える指先で袋を開けた。
かつては銀座の老舗で一食数万円の会食をこなし、ワインの銘柄や肉の熟成具合に知ったような顔をしていた自分が、今、五日前に期限が切れたパンの香りを、必死に嗅いでいる。
(……あはは。カビの匂いは、しない…な)
それどころか、水分が抜けきってカサカサになったパンからは、微かにビニールの匂いと、昨日まで外に放置されていたであろう「埃」の匂いがした。
パンは、まるで厚紙のように硬くなっている。
神代はそれを一口、ゆっくりと噛み切った。
「……あ」
口の中に広がるのは、甘みも何もない、ただの「乾いた塊」だった。
唾液を吸い取り、口の裏側に張り付くような不快感。
飲み込もうとすると、喉にひっかかり、胸が詰まる。
それでも彼は、時間をかけて、慈しむように咀嚼した。
(美味い……なんて、嘘でも言えないな。でも)
胃の中に落ちたとき、そこだけが僅かに熱を持つ。
一流商社の次長職という鎧を剥がされ、社会から駒を弾き飛ばされた僕に、この少女は「生存」を許してくれた。
五日前のパンは、今の僕にとっては「まだ死ぬな」という宣告に等しかった。
神代は、最後の一片を口に入れると、袋に残ったパン屑まで指先で集めて口に運んだ。
お腹は満たされない。でも、頭の芯にあった「いつ死ぬんだろう」という霧のような恐怖が、食べ物を摂取したという事実によって、少しだけ晴れた気がした。
「……ふぅ」
彼は立ち上がり、流し台へと向かった。
蛇口をひねると、錆びた匂いのする水が勢いよく飛び出す。
コップ一杯の水を飲み干し、彼は大きく息を吐いた。
「さて……。いつまでも、白石さんの脛をかじっているわけにはいきませんね」
自分でも驚くほど自然に、彼は袖の足りないジャージを捲り上げていた。
一流企業の法務部で、あらゆる「乱れ」を整えることを仕事にしてきた男の習性。
目の前の流し台には、昨夜の電気鍋が放置されている。
神代 誠司、35歳。
盤面の外に弾き飛ばされた駒は、掃除という名の最初の「仕事」に、静かに着手した。
たとえ、その胸に『白石』という他人のゼッケンをつけた滑稽な姿であったとしても。
カビてなければ…食べます…




