第1話 あ、生きてた
人生という名の双六において、「ふりだしに戻る」というマスは、実はそれほど絶望的なものではない。少なくとも、プレイヤーとして盤上に留まる権利は保証されているのだから。
だが、神代 誠司が引いたのは、そんな生易しい命令ではなかった。
ルールを無視した巨大な指先が、彼という駒を盤面の外へと弾き飛ばした。一流商社という豪華なボードから、テーブルの下、埃の溜まった冷たい床の上へ。自分がなぜ弾かれたのか、どのルールに抵触したのか、それすら教えてもらえないままに。
「あはは……参ったな。これは、ひどい」
35歳。一週間前まで、彼は間違いなく「勝ち組」の一人だった。国内有数の商社、その法務部で次長という椅子に座り、波風を立てず、誰に対しても腰を低くして生きてきた。
それが、どうしてこうなった。
「横領の証拠が見つかった」
突きつけられたのは、全く身に覚えのない書類の束と、精巧に偽造された自分の印鑑。昨日まで笑顔で接していた同僚たちは、一瞬にして氷のような視線を向けてきた。
叫びたい衝動はあった。だが、長年染み付いた「事なかれ主義」が邪魔をして、結局は引きつった笑顔で「何かの間違いだと思うのですが……」と繰り返すことしかできなかった。
家を追われ、携帯も止まり、残ったのは泥で汚れた名刺入れと、数枚の千円札。
三日間、傘も持たずに雨の中を彷徨い、最後に行き着いたのは路地裏の自販機の横だった。
(ああ、歩道で倒れたら通行人の邪魔になっちゃうな……)
意識が遠のく中、そんな「気遣い」をしながら、神代は泥のように眠りについた。
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カチ、カチ、と規則的な音がする。
それと、微かに漂う、出汁の匂い。
「……あ、生きてた」
上から降ってきたのは、ひどく冷めた声だった。
ゆっくりと目を開けると、そこには一人の少女が立っていた。
切り揃えられた黒髪に、少し幼さを残した頬。
瞳は不釣り合いなほど冷ややかで、どこか達観している。
壁のフックに掛けられた紺色のブレザーを見て、神代は彼女が高校生であることを察した。彼女自身は、着古された灰色のジャージを羽織り、箸を持ったまま神代を覗き込んでいる。
「ひっ、あはは……すみませ……っ!」
反射的に謝り、上体を起こそうとする。
だが、猛烈な立ちくらみに襲われ、再び薄い綿の塊――布団に沈み込んだ。
「おじさん、うちのアパートの前で盛大にぶっ倒れてたんだよ。とりあえず引きずり込んだ。……あ、これ、返しとくよ」
彼女が畳の上に放り投げたのは、泥で汚れた名刺入れだった。
「勝手に見せてもらったから。身元不明の不審者を部屋に置いとくほど、お人好しじゃないし。……一流商社のエリート様が、なんであんなところで死にかけてたんですか、神代さん」
「あはは……名刺、見られちゃいましたか。お恥ずかしい。自分でもよく分からないんです。ある日突然、横領したことにされて、誰も信じてくれなくて。ははっ……笑っちゃいますよね」
情けなくて、困り果てて、気づけば顔が引きつった笑顔になってしまう。
そんな男を、少女はじっと無言で見つめていた。
「……別に、笑えない。あんた、お腹鳴ってるよ」
少女は小さな電気鍋からお粥を掬い、無造作に差し出してきた。
「警察呼ぶのは、これ食べてからでいいでしょ。1食50円。ツケでいいから」
「あはは……ありがとうございます。いただきます……」
震える手で受け取ったお粥は、泣きたくなるほど優しい味がした。
一息ついた神代に、少女は不意に部屋の隅にある「押し入れ」を指差した。
「おじさんさ、行くところないなら、そこ使いなよ。私、白石 紬。見ての通りバイト三つ掛け持ちしてて、家賃がマジでヤバいんだよね」
「白石さん、ですか。……押し入れ、というのは?」
「家賃、月三万。水道光熱費込みで貸してあげる。あんたみたいな『頼りない大人』なら、変なことしないでしょ。一人で家賃払うの、もう限界だし」
「三万……ですか。えーと、凄く助かるお話なんですが……。実は僕、今、手持ちが数千円しかなくて。今すぐには、払えないんです。本当に申し訳ありません」
神代は座ったまま、深く頭を下げた。
すると、紬は呆れたようにため息をついた。
「知ってるよ。財布の中、見たから。……だから、出世払い。あんた、仕事探すんでしょ? それまでのツケ。その代わり、家事とか全部やってよね。私、忙しいから」
「……いいんですか? …あはは、僕、掃除も洗濯も、なんでもやります。裏方の雑用は慣れてるんです」
「……じゃあ、契約成立。ようこそ、どん底の『ひだまり荘』へ」
紬が、ほんの少しだけ、呆れたように口角を上げた。
こうして、盤面の外に弾き飛ばされた男と、世知辛い世の中を必死に生きる少女の、奇妙すぎる「押し入れ生活」が始まった。
のんびりかいていきます。




