第10話 調子乗んな
学校とコンビニのアルバイトを終えた白石 紬は、鉛のように重い足を引きずりながら「ひだまり荘」の階段を上っていた。
(……疲れた。今日、おじさん大人しくしてたかな)
朝、出がけに「201号室の皇には絶対に関わるな」と念を押した。
いくらなんでも、あの情けないジャージ姿で積極的にトラブルに突っ込んでいく度胸はないだろう。部屋で大人しく床でも磨いていてくれれば御の字だ。
そんなことを考えながら二階の踊り場に辿り着いた紬の耳に、ありえない音が飛び込んできた。
『カンパーイ!! 神代先生の、圧倒的な実務能力に!』
『おう! マジであんた最高だぜ、神代の旦那!』
『あはは……そんな、僕はただキーボードを叩いただけですし、書類をちょっと直しただけで……』
声の出所は、絶対に近づくなと警告したはずの「201号室」。
しかも、なぜか一階のヤクザ・獅子道の野太い声まで混ざっている。
「……は?」
紬は持っていたコンビニの廃棄弁当を取り落としかけ、半ばパニックになりながら201号室の扉を勢いよく開けた。
「ちょっと! 何やって……」
紬が目にしたのは、朝までは足の踏み場もないゴミ屋敷だったはずの部屋の中央が綺麗に片付けられ、そこに巨大な「特上寿司の桶」が鎮座している光景だった。
大トロ、ウニ、イクラ、アワビ。ひだまり荘には絶対に存在してはいけない輝きを放つ寿司を囲み、徹夜明けのライターと、柄の悪いアロハシャツの男が、つんつるてんのジャージを着た男に酒を注いでいる。
「あ、お帰りなさい、白石さん! お疲れ様です!」
顔をほんのり赤くした神代が、箸を持ったまま嬉しそうに手を振った。
「……おじさん。私、朝あんたに『この部屋の女には関わるな』って言ったよね?」
紬が地を這うような低い声で睨みつけると、神代よりも先に、皇と獅子道が慌てて立ち上がった。
「ち、違うのよ白石ちゃん! 私が無理やり引き止めたの! 先生のおかげで、脱税で捕まるのも免れたし、タダ働きさせられそうだった原稿料も全額回収できたのよ! この人は本物の恩人なの!」
「おう、紬。俺も皇から聞いてな。祝いの席だって言うから、とっておきの焼酎持って駆けつけたんだよ。お前のとこの居候、マジで『本物』のキレ者じゃねぇか」
大人二人が、ゼッケン姿の情けない男を『先生』『本物』と呼んで、崇め奉っている。
紬はこめかみを押さえた。たった一日で、この男はどうやってボロアパートのヒエラルキーの頂点に登り詰めているのか。
「白石さん、突っ立ってないでどうぞ! 皇さんが、白石さんの分もって、一番高い桶を頼んでくれたんです」
神代が、自分の横の座布団をポンポンと叩く。
「……私はいい。疲れてるから部屋に戻る」
「えーっ! ダメだよ白石ちゃん! 先生、さっきから『白石さんが帰ってくるまで、僕はウニと大トロには手をつけません』って、ずっとかっぱ巻きしか食べてないんだから!」
皇が紬の腕を引き、無理やり座布団に座らせる。
目の前には、宝石のような特上寿司。そして、獅子道が「ほら、お茶だ」と、柄にもなく急須で淹れたお茶を差し出してきた。
「……おじさん、バカじゃないの。お腹空いてたなら、先に食べればよかったのに」
「あはは。一人で食べるより、絶対に美味しいですからね。さあ、遠慮せずに」
神代は満面の笑みで、紬の小皿に一番大きな大トロを乗せた。
「…………」
紬は、周囲の大人たちを見た。
いつもなら絶対に目を合わせない、訳ありの危険な隣人たち。それが今は、ただの気の良い酔っ払いのおじさんとお姉さんとして、バカみたいに笑っている。
その中心には、自分が拾ってきた、帰る場所のない男がいる。
(……本当に、変な人)
紬は、静かに箸を割り、大トロを口に運んだ。
上質な脂が舌の上で溶け、甘みが脳髄を痺れさせる。スーパーの半額惣菜や廃棄弁当では決して味わえない、暴力的なまでの「豊かさ」の味。
「……美味しい」
「だろう? 先生の仕事っぷりへの感謝の味だ、しっかり食えよ!」
「白石ちゃん、遠慮しないでウニもいきな!」
ワイワイと騒ぎ立てる大人たちの声が、四畳半の部屋に響く。
三年間、誰の助けも借りず、たった一人で冷たい部屋に帰り続けてきた。大人なんて誰も信用していなかった。
でも今、この狭くて煙たい部屋の空気は、どうしようもなく温かい。
「……おじさん」
「はい! なんでしょうか。お茶のおかわりですか?」
「……ありがと。待っててくれて」
紬が顔を伏せたまま、ボソリと呟く。
神代は一瞬目を丸くしたが、すぐにいつもの、少し情けないけれど優しい笑顔を向けた。
「どういたしまして。……明日も、何か美味しいものを稼いでこられるように頑張りますね」
「……調子乗んな。明日はちゃんと、ハローワーク行きなよ」
紬は呆れたように言い返しつつも、その唇の端は、ほんの少しだけ緩んでいた。
外はすっかり暗くなっていたが、どんちゃん騒ぎの響くこのアパートの一室には、彼女がずっと忘れていた「家族の食卓」のような、確かな熱が宿っていた。




