第11話 利子とかいいから
どんちゃん騒ぎの余韻がほんのりと残る翌朝。
紬は学校へ向かう前、ちゃぶ台の上に、千円札を三枚並べた。
「……おじさん。今日、ハローワーク行くんでしょ」
「はい。まずは失業保険の手続きと、求人の検索をしてこようかと」
神代が真面目な顔で頷くが、その胸元には相変わらず『白石』のゼッケンが輝いており、説得力は皆無だった。
「これで、駅前の古着屋でまともな服を買ってきなよ。いくらなんでも、そのジャージで窓口に行ったら一秒でつまみ出されるから」
「白石さん……!」
神代は、ちゃぶ台の上の三千円を見て目を潤ませた。
女子高生が、深夜のコンビニで働きながら切り詰めている生活費。その中から捻出された三千円は、神代が商社時代に動かしてきた何億円というプロジェクト資金よりも、遥かに重く、尊いものだった。
「ありがとうございます……! このご恩は、初任給が出たら必ず利子をつけてお返しします!」
「利子とかいいから。とにかく、不審者に間違われない『普通の格好』になってね。じゃ、行ってくる」
バタン、と扉が閉まる。
神代は三千円を大切に名刺入れ(唯一残った手持ちのアイテムだ)に挟み、意気揚々と部屋を出た。
「よし。まずは古着屋で、目立たないグレーのチノパンとシャツを……」
「おう、神代」
一階の階段を下りたところで、102号室の扉が開き、獅子道が顔を出した。昨日の宴ですっかり意気投合した男だ。
「おはようございます、獅子道さん。昨夜はご馳走様でした。今からハローワークへ行ってまいります」
「紬から小遣いもらったらしいな。壁越しに聞こえたぜ。古着屋なんか行く必要ねぇよ。ほら、これ使え」
獅子道は、黒いガーメントバッグ(スーツを持ち運ぶカバー)を神代に放り投げた。
「俺の知り合いが置いてったお下がりだ。俺には肩幅がキツくて着られねぇから、ゴミに出そうと思ってたところだ」
「えっ! そんな、悪いですよ!」
「いいから着ろ。書類整理のお礼だ。……お前、そのゼッケン姿で外歩かれたら、一緒に酒飲んだ俺まで恥ずかしいからな」
獅子道はニヤリと笑い、扉を閉めた。
神代はありがたくそのバッグを受け取り、自室(202号室)へ戻って着替えることにした。
カバーを開けると、中に入っていたのは「漆黒のスーツ」と「ダークグレーのシャツ」だった。
ネクタイはない。
(……少し、シャツの色が暗すぎる気もしますが。まあ、贅沢は言えませんね。生地もすごく上質ですし)
神代はジャージを脱ぎ、スーツに袖を通した。
驚くほど、サイズがぴったりだった。
鏡の前に立つ。
神代誠司、35歳。
元・一流商社の法務部次長。連日の激務とプレッシャーに耐え抜いてきた彼の姿勢は、元々すこぶる良い。さらに、この数日間の絶食と心労で頬は少しこけ、伸びかけの前髪を水で後ろに撫でつけたことで、彼の顔には「鋭い陰影」が生まれていた。
そこに、極道の知人が着ていたであろう、シルエットの鋭い漆黒のスーツ。
鏡の中にいたのは、気弱で情けない「押し入れのおじさん」ではなかった。
感情を一切表に出さず、冷徹に法律を武器にして敵を社会的に抹殺する――『裏社会の顧問弁護士』にしか見えなかった。
「……よし。身だしなみは完璧ですね」
本人は、自分の顔つきのヤバさに全く気づいていない。
むしろ「ジャージから脱却できた」という喜びで胸を張り、意気揚々とひだまり荘の廊下へと出た。
「おや」
ちょうど201号室の扉が開き、ゴミを出しに行こうとしていたフリーライターの皇と鉢合わせた。
昨日、神代の「一切の私情を挟まない冷徹な法務スキル」を目の当たりにし、本気で戦慄していた彼女である。
皇は、廊下に立つ神代の姿を見た瞬間。
「ヒッ……!!」と短い悲鳴を上げ、持っていたゴミ袋を取り落とした。
「あ、皇さん。おはようございます」
神代は、商社時代に培った「完璧な営業スマイル」を向けた。
だが、漆黒のスーツとこけた頬のせいで、それは「獲物の命を刈り取る直前の、冷酷な笑み」にしか見えない。
「せ、先生……! お、おはようございます……っ!」
皇は廊下の壁に背中を張り付かせ、ガタガタと震え出した。
昨日の圧倒的な実務能力に、今日のこの隙のない出で立ち。彼女の中で「この人は、ヤバい組織の中枢で手を下してきた本物の実務家だ」という推測が、完全な確信へと変わった。
「先生、今日はどちらへ……?」
「ああ。これからハローワーク(職安)へ、少し『手続き』に行ってまいります」
神代は、爽やかに答えた。
しかし、皇の脳内フィルターを通すと、その言葉は全く違う意味に変換された。
(『ハローワーク』……? 違う、あれは隠語だ……! きっと、敵対する組織の人間を『失業(社会的に抹殺)』させるための、ヤバい手続きに決まってる……!!)
「そ、そうですか! ご武運を……!」
「? はい、良い仕事が見つかるといいのですが」
神代は首を傾げながらも、皇に一礼し、ひだまり荘を後にした。
夕方。
学校とバイトを終えて帰宅した紬は、202号室の扉を開け、ため息をついた。
部屋の真ん中には、漆黒のスーツを着た男が、体育座りをしてどんよりと落ち込んでいた。
「……おじさん。なにその服。古着屋で買ったの?」
「お帰りなさい、白石さん……。いえ、獅子道さんがご厚意で譲ってくださったんです。サイズもぴったりで、素晴らしいスーツなんですが……」
「……」
紬は、神代の姿を上から下まで冷ややかに観察した。
どう見ても、インテリヤクザか、悪徳政治家の秘書である。朝の「ジャージ不審者」とは別のベクトルで、絶対に近づいてはいけないオーラを放っていた。
「で? ハローワークはどうだったの。仕事、見つかりそう?」
紬の問いに、神代は両手で顔を覆った。
「……それが。窓口で『仕事を探しているんですが』と名前を書いた瞬間に、担当の方がなぜか顔面蒼白になりまして……。気づいたら、奥から警備員の方が三人も出てきて、『お引き取りください』と……」
神代は、肩を震わせて咽び泣いた。
「僕、ただ真面目に失業保険の紙を出しただけなのに……! なんで威圧行為で通報されそうになるんですか……!」
「…………」
紬は、頭を抱えた。
原因は明白だった。こんな漆黒のヤクザスーツを着た男が、完璧な礼儀作法と鋭い眼光で「手続きをお願いします」と迫ってきたら、誰だって『事務所の人間が、シノギで嫌がらせに来た』と勘違いするに決まっている。
(……このおじさん。有能なんだか、ポンコツなんだか、本当にわかんないな)
「……はぁ。まあ、いいよ。とりあえず今日はご飯にしよ」
紬は、冷蔵庫から食材を取り出しながら、小さく吹き出した。
エリート崩れの男が、自分の押し入れの前で、ヤクザのスーツを着て体育座りで落ち込んでいる。
そのどうしようもなく滑稽な光景が、彼女の冷え切っていた心を、また少しだけ温かくしていた。




