第12話 いい匂いするんだもん
県立高校の二年C組。
昼休みの喧騒の中で、白石 紬の周りだけが、まるで透明なドームで覆われているかのように静かだった。
窓際の席で、紬は一人、英単語帳を開いている。
透き通るような白い肌と、大人びた整った顔立ち。彼女は間違いなくこの学年でもトップクラスに目を引く容姿を持っていた。
しかし、彼女に気安く話しかける男子は少ない。
「……なぁ白石、今日の放課後、駅前のカラオケ行かない? お前、いっつも付き合い悪いじゃん」
クラスのムードメーカーであり、サッカー部のレギュラーでもある瀬戸が、机に手をついて身を乗り出してきた。
これで今月に入って三度目の誘いだ。紬のような「落とせそうで落とせない、陰のある美人」は、彼のような自信過剰な男子生徒のプライドを妙に刺激するらしい。
「行かない。バイトがあるから」
紬は、単語帳から視線すら上げずに、平坦な声で切り捨てた。
「またバイトかよ。たまには息抜きしようぜ。俺が奢ってやるからさ」
「……悪いけど、そういうの間に合ってるから」
紬がようやく顔を上げ、氷のように冷たい目で瀬戸を射抜く。
彼女は、同年代の高校生たちが謳歌している「青春」というぬるま湯から、完全に降りている人間だった。明日生きるための家賃と光熱費を稼ぐことで頭がいっぱいの彼女にとって、放課後のカラオケなど、別の惑星の出来事に等しい。
「……っ、なんだよ。可愛くねぇな」
瀬戸は気圧されたように舌打ちをし、そそくさと自分のグループへ戻っていった。
遠巻きに見ていたクラスメイトたちが、「また白石が瀬戸を振った」「あいつ、マジで何様なんだろ」とヒソヒソと囁き合う。
達観しすぎた態度のせいで、紬はクラスの中で完全に「浮いて」いた。
だが、本人はそれを全く気にしていない。むしろ、誰も踏み込んでこないこの孤独な環境を、好都合だとすら思っていた。
――ただ一人、この例外を除いて。
「つーむーぎっ! お昼ご飯、一緒に食べよー!」
「……うわっ」
背後から、太陽がそのまま突撃してきたような勢いで、首に勢いよく抱きつかれた。
春野 陽菜。
ショートカットが似合う、ひまわりのような笑顔を持った少女。紬がこの学校で唯一「親友」と呼べる、そして紬の分厚いATフィールドを軽々と無視してくる特異点だった。
「もー、瀬戸くんまた紬にちょっかい出してたの? ほんと懲りないよね。紬は陽菜のだって言ってるのに!」
「別に誰のものでもないけど。……陽菜、重い」
「えへへー。だって紬、いい匂いするんだもん」
陽菜は紬の向かいの席にドカッと座ると、自分の購買のパンと、紬のタッパーを並べた。
陽菜は、紬が親を失い、一人でギリギリの生活をしていることを知っている唯一の人間だ。だからこそ、周りが紬を「冷たい」「付き合いが悪い」と敬遠する中、彼女だけは変わらずに隣にいてくれた。
「……あれ?」
タッパーの蓋を開けた紬の手元を見て、陽菜がパチクリと目を瞬かせた
。
「どうしたの」
「今日のお弁当、なんかいつもと違くない? いつもは白米にふりかけとか、スーパーの半額コロッケだけなのに……今日は卵焼き焦げてるけどめちゃくちゃ綺麗だし、ほうれん草のお浸しまで入ってる!」
「…………っ」
紬は、ピタリと固まった。
その弁当は、今朝、漆黒のヤクザスーツを着た神代が、「冷蔵庫の余り物で作りました! 栄養バランスは完璧です!」と満面の笑みで持たせてくれたものだった。
「……ちょっと、朝早く起きれたから。自分で作っただけ」
紬は目を逸らし、卵焼きを乱暴に口に放り込んだ。
出汁が効いていて、プロが作ったように美味しい。それがまた、妙に腹立たしかった。
「ふーん? 本当かなぁ」
陽菜は、ニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべて紬の顔を下から覗き込んだ。
「なんかさ、今日の紬、いつもよりトゲがないっていうか……『生きてる!』って感じがするんだよね。いつもは『私は一人で世界と戦ってます』みたいな顔してたのに」
「……気のせい」
「えー? 絶対なんかあったでしょ! もしかして、彼氏できた!?」
「絶対にない。……ただ、ちょっと手のかかる『迷い犬』を拾っちゃって、うるさいだけ」
紬は、自分の押し入れの前で体育座りをして咽び泣いていた35歳の元エリートの姿を思い出し、深い、本当に深いため息をついた。
「えっ! 犬!? 紬んち、ペット飼えるの!?」
陽菜がバンッと机を叩き、目をキラキラと輝かせた。
彼女は、とにかく「世話焼き」で、ダメなものや可哀想なものを見ると放っておけない、底なしの母性の持ち主だった。
「超見たい! 陽菜、ワンちゃんのお世話とかめっちゃ得意だよ! 紬がバイトで忙しい時とか、陽菜が散歩に連れてってあげたい!」
「……いや、散歩はいい。むしろ外に出すと職務質問されるから」
「え? ワンちゃんが職質?」
「……なんでもない。とにかく、あんたには絶対見せられないから」
あの有能なくせに絶望的にポンコツな「漆黒のスーツのおじさん」を、このお人好しの陽菜に会わせたらどうなるか。
世話焼きの陽菜のことだ。「陽菜がちゃんとしてあげなきゃ!」と、妙な方向へスイッチが入ってしまう未来が、紬にはハッキリと見えていた。
「えー、ケチー! いつか絶対、そのワンちゃん見に行かせてもらうからね!」
「はいはい。パン、早く食べないと昼休み終わるよ」
陽菜の明るい声を聞きながら、紬は再び卵焼きを口に運んだ。
学校での孤立も、男子からの鬱陶しい誘いも、いつもならひどく心をすり減らすのに。
最近は不思議と、それほど重く感じなかった。
(……帰ったら、あのおじさん、また何かやらかしてなきゃいいけど)
誰も踏み込めなかった彼女の心の中に、今は、帰るべき四畳半の部屋と、そこにいる「おじさん」の存在が、確かな重力を持って根を下ろしていた。




