第13話 うちの、居候です
土曜日の朝。
時計の針が午前五時を少し回った頃、押し入れの中で眠っていた神代は、微かな物音で目を覚ました。
そっとふすまの隙間から覗くと、薄暗い部屋の中で、紬が音を立てないように着替えをしているところだった。
「……白石さん? 休みなのに、こんな朝早くからどうされたんですか」
神代が控えめに声をかけると、紬はビクッと肩を揺らし、ジロリと鋭い視線を向けた。
「……起きてたの。うるさいな、寝てなよ。土日は駅前のスーパー。朝六時から八時まで、開店前の品出しに入ってるの」
「六時から……でも、今はまだ五時を過ぎたばかりですが」
「六時ぴったりに行っても準備が間に合わないでしょ。五時半には現場に入ってなきゃいけないの。じゃ、行ってくる」
紬はリュックを背負うと、足早に部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる。静まり返った暗い部屋で、神代は深く息を吐き出した。
平日の夕方だけでなく、休日は陽が昇る前から働き詰め。彼女の背負っている重圧のリアルさに、胸が締め付けられる思いだった。
ふと、ちゃぶ台の上に目をやると、そこにスーパーのロゴが入ったエプロンと名札が、綺麗に畳まれたまま取り残されていた。
「……いけない。暗い中で急いで出たから、忘れてしまったんだ」
神代は慌ててエプロンを掴む。
これがないと、現場で店長にこってりと絞られるだろう。ただでさえ睡眠時間を削って働いている彼女に、そんな理不尽なストレスをかけさせるわけにはいかない。
神代は、獅子道からもらった『漆黒の極道スーツ』に素早く袖を通し、深夜の静寂が残る街へと飛び出した。
午前五時四十分。駅前スーパーの裏手にある搬入口。
神代が小走りで角を曲がると、そこには朝の冷気をも切り裂くような不穏な怒声が響いていた。
「だから! うちが昨日『商品変更』のメール送ったって言ってんだろうが! 今さら受け取れねぇってのは通らねぇよ!」
柄の悪い納品業者のドライバーが、荷台の前で店員に詰め寄っていた。
その前で、小柄な店長がオドオドと縮み上がっている。最近この業者との納品トラブルが頻発していたため、今日は店長自らが早出で現場に出ていたのだが、完全に相手の勢いに飲まれていた。
「で、ですが……発注したAメーカーの飲料ではなく、こんな無名のBメーカーの品物では、お客様には出せません……」
「っるせぇな! お前んとこのバイトがメール見落としてたんだろ! とにかく、荷物は降ろしたからな! さっさと伝票にハンコ押せ!」
ドライバーが店長の胸ぐらに手を伸ばしかけた、その瞬間。
「――おや。朝から随分と物騒ですね」
静かで、ひどく冷徹な声が搬入口に響いた。
ドライバーが振り返ると、そこには漆黒のスーツを着た男が立っていた。
痩せこけた頬。一切の感情を読み取れない、凪いだ水面のような暗い瞳。その場にいる全員が、無意識に一歩後ずさるほどの、深海の底のように冷たく、異質なオーラ。
「お、おじさん……?」
エプロンがないまま立ち尽くしていた紬が目を丸くする。
神代は彼女を一瞥すると、静かに歩み寄り、ドライバーの足元に置かれた納品書と、店長の震える手にある契約書面のコピーをスッと抜き取った。
「な、なんだテメェは! どこのモンだ!」
「彼女の保護者代わりと言いますか……少々、契約事情に通じた『関係者』とでもお考えください」
神代の視線が、納品書からドライバーへと移動する。
「……なるほど。発注したAメーカーの飲料ではなく、安価なBメーカーの飲料が納品されている。しかし、請求額はAメーカーのままだ」
「お、俺らは昨日、ちゃんと変更の連絡を入れたんだよ! そっちの確認漏れだろが!」
「……あの、恐れ入りますが」
神代は、呆れたように小さくため息をつき、契約書の一文をトントンと指で叩いた。
「この納品条件、『商品の欠品に伴う代替品の納品および条件の変更は、前日17時までに甲乙間で合意するものとする』と明記されています。しかし、そちらが変更のメールを送信したのは、昨日の『19時』ですね?」
「……っ!」
神代の丁寧な、しかし逃げ場を一切与えない指摘に、ドライバーの動きがピタリと止まった。
「つまり、契約上、その一方的な変更通告は『無効』です。さらに言えば、安価な代替品を納品しておきながら請求額を据え置く行為は、民法上の債務不履行のみならず、詐欺の構成要件を満たしかねない事案ですよ」
「さ、詐欺だと……!? ふざけんな、たかがジュースの納品で……!」
「たかが、ではありませんよ。商取引において契約書は絶対です。それを軽視される企業とは、今後の取引を見直さざるを得ませんね」
神代が、ジリッと一歩だけ前に出た。
漆黒のスーツが放つ威圧感と、逃げ道を完璧に塞ぐ論理的な『詰め』。
「……商品を本来の契約通りに揃えて出直すか。それとも、このまま僕と『本部』および『警察』を交えて、御社のコンプライアンス体制について徹底的にお話しするか。……どちらになさいますか?」
「ひ、ひぃっ……!」
冷徹な眼差しに射抜かれ、ドライバーは顔面を蒼白にした。
「す、すぐに持ち帰ります!」
と叫ぶなり、逃げるように商品をトラックに積み込み始める。
嵐が去った後の搬入口で、店長はへたり込み、神代を神様か何かのように拝み倒していた。
「あ、ありがとうございます……! 白石さん、このお方は一体……!?」
「……うちの、居候です」
紬は呆れ果てた溜め息をつきながら、神代の前に歩み寄った。
「……何やってんの、おじさん」
「あはは。少し、法務の血が騒いでしまいまして。……それより、これ」
神代はいつもの情けない笑顔に戻ると、持っていたエプロンを紬にそっと差し出した。
「忘れ物ですよ。これがないと、お仕事に支障が出るでしょう?」
「あ……」
紬は、手渡された自分のエプロンと、神代の顔を交互に見た。
「わざわざ、これ届けるためだけに来たの……?」
「ええ。店長さんに怒られてしまったら大変ですから」
紬は神代の上下をジロジロと見て、胡乱な目を向けた。
「……バカ。こんなの、別に怒られるだけで済んだのに。てか、そのスーツ。朝っぱらから借金取りみたいで浮きまくってるんだけど」
「あはは。これしか持っていなくて、やはり少し威圧感が強すぎましたかね」
「少しどころじゃないよ。……でも、助かった。ありがと」
紬はそっぽを向きながらエプロンを受け取ったが、その声は微かに弾んでいた。
誰も見ていない早朝の搬入口で、彼女の冷え切っていた日常が、また一つ、確かな温かさで上書きされていく。
「さ、もう六時になります。仕事の邪魔をしてはいけませんので。白石さん、あまり無理はしないでください」
「わかってる。おじさんこそ、帰り道で職質されないように気をつけてよ」
漆黒のスーツを着た男が、ペコリと深く頭を下げて去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、紬はエプロンを身につけ、少しだけ口角を上げた。




