第16話 別に、急がなくていいし
すっかり日の落ちたひだまり荘202号室には、出汁と醤油のなんとも言えない良い香りが充満していた。
「……よし。味の染み具合は完璧ですね」
神代は、小さなガスコンロに乗せた小鍋の蓋を開け、小さく安堵の息をついた。
冷蔵庫に残っていた少ししなびた大根、特売の豚肉、そしてこんにゃく。それらを丁寧に下茹でし、生姜を効かせて甘辛く煮込んだ「豚バラ大根」である。それに加えて、ふっくらと炊き上がった白米と、豆腐とわかめの味噌汁。
神代は、自分が無一文で缶コーヒーすら買えなかった情けなさを必死に心の奥に押し込み、ちゃぶ台の上に定食を並べ終えた。
ガチャリ、と玄関のドアノブが回る音がした。
「……ただいま」
「あ、白石さん。おかえりなさい。お疲れ様でした」
重いリュックを背負った紬が、ふらふらとした足取りで靴を脱ぐ。
朝五時からのスーパーの品出しに始まり、夕方までのカフェ勤務。文字通り一日中働き詰めだった彼女の顔には、隠しきれない疲労が濃く滲んでいた。
しかし、部屋に漂う甘辛い煮物の匂いを嗅いだ瞬間、紬の足がピタリと止まった。
「……お腹、空きましたよね。すぐ食べられますよ」
「…………うん」
紬はリュックを床に下ろすと、吸い寄せられるようにちゃぶ台の前に座り込んだ。
神代が手早くお茶を淹れ、対面に座る。
「いただきます」
紬は、箸で大根を切り分け、フーフーと冷ましてから口に運んだ。
途端に、彼女の氷のように張り詰めていた表情が、ほろりと解けた。
「……おいしい」
「よかったです。少し生姜を多めにして、体が温まるようにしてみました」
「大根、中までトロトロ……。お店のやつみたい」
普段は神代に対して冷たい態度を崩さない紬が、今はただの年相応の少女のような顔で、夢中になって白米と豚バラ大根を口に運んでいる。
その無防備な食べっぷりを見ているだけで、神代の胸の奥にあった「社会から拒絶された」という冷たい泥のような感情が、温かく溶かされていく気がした。
「……おじさん」
「はい、何でしょう」
「なんでおじさん、自分の分食べないの」
紬が、ピタリと箸を止めて神代を見た。
神代の目の前には、お茶の入った湯呑みが一つ置かれているだけだったのだ。
「あ、いえ。僕は昼に少しつまんだので、お腹は空いていなくてですね。それに、お肉も残り少なかったので、白石さんが全部……」
グゥゥゥゥ。
神代が言い終わる前に、彼のお腹が、四畳半の部屋に響き渡るほど立派な音を鳴らした。
今日一日、歩き回って何も食べていないのだから当然である。
「…………」
「…………あはは。少し、お腹の調子が」
神代が冷や汗を流しながらごまかそうとするが、紬はジト目で彼を睨みつけ、それから立ち上がって台所へ向かった。
そして、戸棚から自分用のお茶碗を取り出し、炊飯器に残っていたご飯をよそって、自分の小鍋から豚肉と大根を半分、そこへ無言で乗せた。
ドン、と神代の目の前に「特製豚バラ大根丼」が置かれる。
「……白石さん?」
「食べなよ。私、一人だけ食べてるの、なんか嫌だから」
紬はそっぽを向きながら、自分の席にドカッと座り直した。
「でも、これは白石さんが稼いでくれた大事な食材で……」
「いいから食べて。……おじさん、今日仕事探しに行ってたんでしょ。顔見ればわかる。一日中歩き回って、空回りして、ダメだったって顔してる」
「……っ」
図星を突かれ、神代は言葉を詰まらせた。
「あのスーツ着て手ぶらで面接行ったら、そりゃどこも落とすでしょ。バカみたい」
「……おっしゃる通りです。身分証の住所すら証明できない今の僕には、社会的な信用が何一つない。……ごめんなさい、白石さん」
神代は、湯呑みを見つめながら、ひどく情けない声で謝った。
「あなたが睡眠時間を削って稼いできた食材を、こうして調理することしかできない。……一円も稼げない僕は、あなたの負担を減らすどころか、こうして食い潰しているだけの……無力な居候です」
部屋に、時計の秒針の音だけが響いた。
神代が、自分の不甲斐なさに押し潰されそうになっていた、その時。
「……別に、急がなくていいし」
紬が、ぽつりと呟いた。
「え?」
「別に、急いで仕事探せなんて言ってない。おじさんは今、私の『専属の家政婦』なんだから、家の中のこと完璧にやってくれれば、それでいいの。……実際、すごく助かってるし」
紬は、少しだけ頬を赤く染め、口元を隠すように味噌汁のお椀で顔を覆った。
「私が帰ってきた時、部屋が明るくて、温かいご飯があるの。……それだけで、私の負担はちゃんと減ってるから」
それは、感情を排して生きてきた彼女が絞り出した、最大限の「感謝」だった。
神代は、パチクリと目を瞬かせた。
河川敷で、陽菜という少女がくれた『優しさ』。
そして今、目の前にいる、自分が守りたかった小さな恩人がくれた『居場所』。
「……白石さん」
「早く食べてよ。冷めるでしょ」
「……はい。いただきます」
神代は、紬が分けてくれた豚バラ大根丼を、両手でしっかりと持ち上げた。
一口食べると、生姜の香りと豚肉の甘みが、空っぽの胃袋と、それ以上に空っぽだった心にじんわりと染み渡っていく。
気がつけば、神代の視界は少しだけ滲んでいた。
「……すごく、美味しいです」
「……何も食べてなかったんだから当たり前でしょ」
紬はそっぽを向いたまま言い返したが、その口角は少しだけ緩んでいた。
外の世界では、社会から弾かれた「規格外の大人」と、青春を犠牲にして生きる「孤独な女子高生」。
しかしこの四畳半の部屋の中だけは。
二人にとっての、何よりも温かい「帰るべき場所」になっていた。
――コンコン。
不意に、玄関のドアが力なく叩かれた。
「……神代センセー。白石ちゃーん……」
幽鬼のような、しかしどこか図々しい声。
ガラッと遠慮なく扉を開けて入ってきたのは、ボサボサの髪にスウェット姿で、片手に安物の発泡酒をぶら下げた201号室の皇だった。
「いやもう、原稿の締め切りで餓死しそうなんだけど、隣からめちゃくちゃ家庭的ないい匂いがテロみたいに漂ってくるんだわ……。一口、いや煮汁だけでいいから恵んで……」
「……おい、ドアの前で立ち止まるな。邪魔だ」
その後ろから、紙袋を持ったアロハシャツ姿の獅子道が呆れたように続く。
「ちょ、ちょっと! なんで勝手に入ってきてんのよ。ここ私の部屋なんだけど」
紬が箸を持ったまま抗議するが、皇はフラフラと狭い四畳半の部屋に上がり込み、ちゃぶ台の端に突っ伏した。
「おう、神代。商店街の肉屋でローストビーフの切れ端をオマケしてもらったから、切ってくれ。酒のツマミにしようぜ」
「ああっ、獅子道さん、皇さん! いらっしゃいませ! すぐにお皿をご用意します!」
感動で涙ぐんでいたはずの神代は、一瞬にして『完璧な専属家政婦』の顔に戻り、慌てふためきながら狭い台所へ飛んでいった。
「おじさん! アンタもなんで普通に迎え入れてんのよ!」
「はっ! すいません!おもてなし精神がつい出てしまいました」
「細かいこたぁ気にすんな! ほら、紬もコーラ飲むだろ!」
獅子道が買ってきた高級なローストビーフがどんと広げられる。
先ほどまでの、二人きりの静かで少し切ない食卓はどこへやら。四畳半の部屋は、一瞬にして大人たちの酒盛りの会場へと変貌してしまった。
「あー……五臓六腑に染み渡るわ……。神代先生の作った大根、味染みてて最高……。ねえ先生、ウチの専属主夫にならない?」
「……絶対ダメ。おじさんが過労死する」
紬が即座に却下する。
「おっ、独占欲強いねぇ。おい神代、お前も飲め。今日は仕事探しで歩き回ったんだろ」
獅子道が、神代のマグカップにドボドボと発泡酒を注ぐ。
見るからにヤクザと、ズボラな自称ライターと、訳ありの元エリート。
どう見てもまともな大人が一人もいない混沌とした食卓で、紬は呆れ果てたようにため息をついた。
「……狭い。うるさい。最悪」
口ではそう毒づきながらも。
紬の箸は、ちゃっかりと獅子道の持ってきた高級な肉をしっかりと掴み、口へと運ばれていた。
そして、神代が自分のために作ってくれた大根も、誰にも取られないように自分の小皿へと素早く確保している。
「白石さん、無理してお付き合いいただかなくても大丈夫ですよ。僕がすぐにこの方々をお引き取り……」
「いい。もう諦めたから。……そのかわり、洗い物はおじさんが全部やってよね」
呆れ顔で言う紬の表情は、どこか楽しげでバイトの疲れも忘れたようだった。
狭くて、騒がしくて、どうしようもない大人たちが集まる場所。
けれど、そこには確かな「ひだまり」の温度があった。




