第15話 ダメな大人なんかじゃないですよ
公園での職務質問という思わぬトラブルから帰還した神代と紬は、四畳半の部屋で朝食の片付けをしていた。
「……じゃ、私、着替えて次のバイト行くから」
紬はリュックを背負い、玄関でスニーカーの踵を踏み鳴らした。
「もうですか? スーパーの品出しが終わったばかりなのに」
「休日は朝から梯子しないと効率悪いからね。九時半から、駅の向こうのカフェ。夕方までには帰るから、適当に過ごしてて」
「分かりました。……あまり無理はしないでくださいね」
神代の気遣う声に、紬は「……ん」とだけ短く返し、足早に部屋を出ていった。
バタン、と扉が閉まる。
休む間もなく次の仕事へ向かう彼女の背中を思い出し、神代は静かに立ち上がった。
「……僕も、のんびりしている場合ではありませんね。少し街を歩いて、まともな働き口を探さないと。これ以上、彼女の負担になるわけにはいかない」
神代は、獅子道から借りた漆黒の極道スーツのジャケットを羽織り、強い意気込みと共にアパートを出た。
――しかし。現実は、ひどく残酷だった。
『……保証人か、緊急連絡先のご家族は立てられますか?』
『あ、いえ……それは、少し難しくてですね』
駅裏の小さな運送会社の面接。神代がそう答えた瞬間、人の良さそうだった初老の所長の笑顔が、スッと固まった。
『……そう。まあ、そのスーツも現場じゃ浮いちゃうしね。……ご縁があれば、またこちらから連絡するよ』
それは、事実上の不採用通知だった。
日雇いの土木作業から、駅前の飲食店の皿洗いまで、手当たり次第に声をかけた。しかし、どこへ行っても「保証人なし・現住所不定」という点で渋られ、さらにスーツの出立ちとこけた頬を見て、露骨に警戒されて終わった。
かつては数千億のプロジェクトを動かし、エリート街道の最前線を走っていたはずなのに。
今の自分は、履歴書の一枚すらまともに受理されない、社会の規格外だ。
「……情けない。女子高生に養ってもらっている三十五歳なんて、ただの粗大ゴミじゃないか……」
午後五時。
茜色に染まった河川敷。神代は、遊歩道にある自動販売機の前で立ち尽くしていた。
喉が渇いた。ひどく疲れた。
しかし、ポケットを探っても、出てきたのは十円玉が数枚だけ。百三十円の缶コーヒーすら買えない。
神代は力なく自販機から離れると、すぐ横のコンクリートの階段に、崩れ落ちるように座り込んだ。膝に両肘をつき、深く頭を抱える。
川面を照らす夕日が、今の彼にはひどく眩しくて、痛かった。
「あのっ!」
不意に、真横から明るい声が降ってきた。
驚いて顔を上げると、そこにはショートカットの女子高生が、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。春野 陽菜である。
「……はい?」
「これ! もしよかったら、飲んでください。少し肌寒くなってきたし」
陽菜は、自販機で買ったばかりの温かい缶コーヒーを、神代の目の前にスッと差し出した。
「え、あ、いや……見ず知らずの私に、そんな」
「いいからいいから! お兄さん、自販機の前で小銭数えながら、この世の終わりみたいな顔してフラフラだったから。陽菜、そういうの放っておけなくて」
陽菜は神代の隣に少し距離を空けて座ると、自分用のココアのプルタブを開けた。
「……ありがとうございます。いただきます」
神代は恐縮しながらコーヒーを受け取り、その温かさに少しだけ息を吐いた。
「お兄さん、ヤバそうな黒スーツ着てるけど……なんか、すごく人が良さそうなオーラ出てますよ。お仕事帰りですか? すっごくお疲れみたいだったから」
「仕事帰り、ですか。……あはは、そう言えればよかったんですが。実は今日、一日中働き口を探し回っていましてね」
神代は、手の中の缶コーヒーを見つめながら、ポツリとこぼした。
普段なら絶対に他人に弱音など吐かない。しかし、夕暮れという時間帯と、隣に座る見知らぬ少女の屈託のない空気が、神代の口を滑らせた。
「……僕は今、ある女の子の部屋に居候させてもらっているんです。彼女はまだ若いのに、身を削って働き詰めで……。僕はそんな彼女の負担を少しでも減らしたくて、今日、仕事を探し回っていたんですが」
「全部、ダメだったんですか?」
「ええ。一件も。身元も保証できず、見た目もこの通りですからね。社会から全く必要とされていない人間なんだと、改めて思い知らされました。……あんなに頑張っている彼女に、合わせる顔がありません」
自嘲気味に笑う神代。
その横顔を見て、陽菜は少しだけ怒ったように眉を寄せた。
「……ダメな大人なんかじゃないですよ」
「え?」
「だって、お兄さんはその『恩人の女の子』のために、今日一日、足が棒になるまで必死に仕事を探して歩き回ったんですよね? その子のことを、本気で心配して、なんとかしてあげたいって思ってるんですよね?」
陽菜は、真っ直ぐな瞳で神代を見つめた。
「だったら、全然ダメじゃないです。陽菜、そういうお兄さんの優しさ、すごくいいなって思います」
「…………っ」
神代は、目を丸くした。
こんな、道端で出会ったばかりの女の子に。
社会のレールから外れ、完全に自信を喪失していた自分の「心根」の部分だけを、真っ直ぐに肯定された。
「……あなたみたいな裏表のない人と話していると、不思議と、少しだけ息がしやすいですね」
神代は、少しだけ自嘲を込めて、けれど確かに安堵したように息を吐いた。
胸の奥にこびりついていた冷たい泥が、その言葉と缶コーヒーの熱で、少しだけ解れていくような気がした。
「えへへ、よく言われます! 陽菜の『陽』は、太陽の『陽』ですから!」
陽菜が明るく笑う。
神代は立ち上がり、スーツのズボンの砂を払うと、陽菜に向かってひどく丁寧な、美しいお辞儀をした。
「ごちそうさまでした。そろそろ暗くなる前に帰って、夕飯の支度をしないと」
「あ、そうですね! 気をつけて!」
「ええ。……せめて、家事くらいは完璧にやらないと。今の僕には、彼女の役に立てることなんて、それしかありませんから」
不器用で、いつも一人で無理をしてばかりいる小さな恩人。
彼女が帰ってくる部屋くらいは、温かく、綺麗にしておいてあげたい。
そんな純粋で切実な思いを滲ませて、神代は静かに歩き出した。
夕暮れの河川敷。
手を振って帰っていく神代の少し猫背な背中を見送りながら、陽菜は首を小さく傾げた。
「恩人の女の子、かぁ」
見た目はマフィアみたいに怖くて、でもびっくりするくらい腰が低くて、誰かのために一生懸命になれる人。
「……いいなぁ、ちょっと羨ましいかも」
陽菜は、冷え始めた風の中でポツリと呟き、空になったココアの缶を揺らした。




