#5 ようこそ地下帝国へ!〜冷徹エリート、サウナとポテチに屈する〜
サクッ、と儚く弾けたクッキーの欠片が、クロエの舌の上でとろけていく。
バターの豊潤な風味、蜂蜜の柔らかな甘み、そして最高級の小麦粉がもたらす極上の口どけ。それは、王都の宮廷菓子職人が国家の面目をかけて焼き上げる最高級のタルトすら遠く及ばない、次元の異なる至高の味わいだった。
「な……なになに、これ……っ!? なんなの、このお菓子……!?」
クロエは残りのクッキーを慌てて両手で口に放り込み、頬を限界まで膨らませながら叫んだ。目にはまだ涙の跡が残っているというのに、その表情はすでに感動と混乱で完全にパニックを起こしていた。
「気に入ってもらえて何よりです。さて、外は寒いですから、立ち話もなんですし中へ行きましょう」
俺はそう言うと、クロエの両手にはめられていた無骨な鉄手枷に触れた。
《アイテム消滅コマンド実行:消費ポイント 10 pt》
カチャン、と軽い音を立てて手枷が光の粒子となって消え去る。
「え……っ!? 手枷が……魔法陣もなしに……!?」
「細かいことは後です。ほら、リリア、クロエさんの荷物……って、着の身着のままで追放されたから何もないか」
「うん! じゃあ、腕引っ張っていくね! クロエさん、こっちこっち!」
リリアがクロエの細い手首を優しく掴み、村の端にある枯れ井戸へと引っ張っていく。クロエは「え? ちょっと待って、枯れ井戸? どこに行くの!?」と悲鳴のような声を上げながら、ズルズルと引っ張られていった。
枯れ井戸の前に立ち、俺たちは滑らかな石造りの螺旋階段を下りていく。 十段、二十段と下るごとに、地上の凍えるような冷気が引き、春の陽だまりのような暖かな空気が肌を撫でる。
「暖房……魔法具による温度調整……? いいえ、それにしては魔力の波動が一切感知できない……一体どういう構造なの……?」
クロエは元・財務官僚としての鋭い洞察力を働かせようとしていたが、その分析は地下の扉を開いた瞬間に粉々に打ち砕かれることとなった。
重厚な自動ドアが『シュイン』と静かな駆動音を立てて左右に滑り出す。 その先に広がる光景を目にした瞬間、クロエの足が完全に止まった。
「っ――――――!?」
そこは、王宮の謁見の間すら霞むほどに広大で、現代的な洗練を極めた大ホールだった。 天井からは眩いばかりの純白の光が部屋全体を均一に照らし出し、足元には一切の塵すら落ちていない極上の絨毯。壁には巨大な薄型ディスプレイが嵌め込まれ、美しい環境映像が映し出されている。完璧な空調システムが送り出す空気は澄み渡り、微かにアロマの香りが漂っていた。
クロエは口をぽかんと開けたまま、首がちぎれんばかりに周囲を見回した。
「な……なに、これ……何なの、この施設は……っ! 建築様式がどれとも合致しない……大理石でも木材でもない謎の金属素材……ガラスの透明度も異常……! こんな広大な空間を地下に掘削し、崩落を防ぎつつこのレベルのインフラを整えるなんて……っ!」
彼女の頭脳が猛スピードで回転を始める。
「国庫の年間予算……いや、国家予算の【三十年分】を全額投じても不可能ですわ! 労働力は!? 資材の調達ルートは!? 王国の監視の目を盗んで、辺境の地下にこれほどの建造物を造るなんて、物理法則と経済理論が崩壊していますわ!!」
頭を抱えて「あり得ない、あり得ないわ……!」とブツブツ呟き始めたクロエ。 国家の財政を知り尽くしていた天才だからこそ、この地下帝国の存在が『どれほど狂っているか』を正確に理解してしまい、処理容量を超えてしまったのだ。
そんな混乱の極みにある元エリートの前に、トコトコと一人の少女が歩み寄ってきた。
「ふふ〜ん。クロエさん、頭から煙が出てるよ?」
見上げれば、そこには片手に紙で包まれた食べ物を持ち、満足げなドヤ顔を浮かべたリリアが立っていた。 リリアの手にあるのは、たっぷりともちもちの生地で包まれた『チョコバナナクレープ』だ。一口食べるたびに「ん〜っ!」と幸せそうに頬を緩めている。
「リ、リリアさん……? あなた、その手に持っている極上の香りがする食べ物は……」 「これ? クレープっていうんだよ! 地下の『全自動スイーツ生成器』で作ったの! すっごく甘くて美味しいんだから!」
「す、スイーツ生成器……? 召喚魔法の一種……? いいえ、そんな魔法は存在しない……」
「難しいことは後! ほら、クロエさん、まずはそこでお洋服脱いで!」
「へ……? お、お洋服……!?」
リリアが指差したのは、ホールから続く大浴場――『スパエリア』の入り口だった。
「外で泥だらけになって、すごく寒かったでしょ? 追放されて心も体もボロボロなんだから、まずはサウナで汗を流してくるべきだよ! 私も最初、アレンに教えてもらってびっくりしたんだから!」
リリアは自慢げに胸を張り、どこから取り出したのか、フェルト生地でできた小ぶりな帽子――『サウナハット』をクロエの頭にすっぽりと被せた。
「サウナ……? 蒸し風呂のことかしら……? でも、私、着替えも何も……」 「大丈夫! お風呂から上がったら、アレンが最高に気持ちいいお服を用意してくれるから! さあさあ、行ってきた行って来た!」
「きゃっ、ちょっと……!」 背中をポコポコと押され、クロエは半ば強制的に高級スパエリアへと押し込まれていった。
* * *
俺はポイントショップを開き、クロエの歓迎&リラックス用として、さらに施設をアップグレードした。
《『フィンランド式最高級サウナ&深水風呂ユニット』を購入。消費ポイント:300,000 pt》 《『ラウンジ専用ジャンクフード生成機』を購入。消費ポイント:200,000 pt》 《現在のカルマポイント残高:57,300,000 pt》
五千万ポイント以上もあるのだ、これくらいの消費は誤差のようなものだ。
そして約三十分後。
スパエリアのドアが開き、中からふらふらとした足取りで一人の女性が出てきた。
「はわわ……んあぁ……」
そこにいたのは、先ほどまでの刺々しい冷徹さは微塵もなく、完全に顔を弛緩させたクロエだった。
埃にまみれていた美しい銀髪は、スパの保湿効果によって絹のようにしっとりと輝き、濡れた毛先から美しい雫が滴っている。陶器のように白い肌は、血行が良くなったことで全身がぽっと美しい桜色に染まっていた。 首には俺が用意しただるだるのオーバーサイズジャージを着ており、萌え袖になった手で頭のサウナハットをぽてぽてと触っている。
「クロエさん、どうだった……?」 リリアが尋ねると、クロエはトロけた瞳をゆっくりとこちらに向け、今にも消え入りそうな声で呟いた。
「なに……あれ……。なんなの、あの空間は……っ」
彼女はフラフラと歩み寄ると、ラウンジのふかふかのソファに深々と倒れ込んだ。
「八十度に保たれた檜の香りの蒸し風呂……熱したサウナストーンに芳香水をかけた瞬間に押し寄せる、狂おしいほどの熱波……。そして、全身の毛穴が収縮するような十六度の水風呂と、微風が吹き抜けるデッキチェアでの休憩……っ!」
クロエは両手で顔を覆い、感極まったように身悶えした。
「私……私、感じてしまいましたわ……! 脈拍が穏やかになり、頭の中の雑念がすべて吹き飛び、まるで魂が身体から抜け出して宙に浮いているかのような……あの、異常な快感を……っ!」
「あ、それ『ととのった』んだね。アレンが言ってた!」
「『ととのう』……! ええ、まさにそれですわ! 王宮の水浴びなんて、ただの拷問です! あれこそが、人間が到達すべき真の平和……!」
元・財務官僚の知性が、温冷交互浴の圧倒的な快楽によって完全に破壊されていた。
「はい、クロエさん。風呂上がりといえばこれでしょ」
俺はニコニコしながら、ガラステーブルの上に二つの品を置いた。
一つは、ガラス瓶に入ったキンキンに冷えた『コーヒー牛乳』。 もう一つは、揚げたての香ばしい匂いを漂わせる、山盛りの『コンソメパンチ味ポテトチップス』だ。
「これは……?」 「風呂上がりの水分補給と、軽食ですよ。どうぞ」
クロエは疑わしそうにコーヒー牛乳の瓶を受け取ると、渡された紙コップを使わず、俺の動作を真似て腰に手を当て、瓶の口に直接かぶりついた。
ごくっ、ごくっ、ごくっ……。
咽喉を鳴らして一気に飲み干す。
「ふはぁっ……!?」
口の周りに白い泡をつけたクロエが、カッと目を大きく見開いた。
「甘い……!? 苦味とコクのある濃厚な豆の香りと、ミルクの圧倒的なまろやかさ、そして喉を駆け抜ける冷涼感……! なにこれ、王宮の高級お茶会で出されるどんなお茶よりも、何倍も美味しいですわ……っ!」
「次はこっちもどうぞ」 俺はポテトチップスが入ったボウルを彼女の前に差し出した。
クロエは恐る恐る、薄く揚がった黄金色のポテトチップスを一枚摘み、口へと運ぶ。
パリッ。
軽やかな音とともに、口の中に爆発的な『旨味』が広がった。 ジャガイモの素朴な甘み、絶妙な塩加減、そして肉と野菜の出汁を限界まで凝縮したような、中毒性の高すぎるスパイスの香り。
「―――――ッ!?」
クロエの身体が、ビクンと跳ね上がった。
パリッ、パリパリパリッ!!
「おいしい……! なにこれ、止まらない……! パリパリしてる……塩気と旨味が……脳を直接揺さぶってくる……ッ! 宮廷料理のような無駄な気取りなんて一切ない、人間の欲望を直接叩き破るような、悪魔的な美味しさ……!」
言葉とは裏腹に、彼女の手は機械のような速度でボウルと口を往復していた。 一枚、また一枚。手に付いたコンソメパウダーすら愛おしそうに舐めとり、ものの数分で山盛りだったポテトチップスを平らげてしまったのだ。
「ぷはぁぁぁ……っ! 美味しかった……こんなの、反則ですわ……」
クロエはソファーに深く沈み込み、満腹感とサウナの余韻で、すっかりトロけた顔をしていた。 元・財務官僚としてのキリッとした面影はどこにもない。そこにあるのは、完全にジャンクフードと最新インフラの毒に侵された、一人のポンコツな少女の姿だけだった。
「どうですか、クロエさん。この村での生活は」 俺が意地悪く微笑むと、クロエはハッと正気に戻ったように座り直した。
「あ、あり得ませんわ……! 私を追放した悪逆王カルロスに復讐し、王国の腐敗した財政を正すのが私の使命……! こんな場所で、サウナに入ってポテトなんとかを食べ散らかしている場合では――」
「ちなみに」 俺は言葉を遮り、システムウィンドウをチラつかせた。
「この地下帝国では、カルマポイントさえあれば、新作の『ノリ塩味』や『ガーリックバター味』のポテトチップスも生成できます。さらには『コーラ』という爽快な炭酸飲料や、深夜に食べる『とんこつラーメン』、さらには巨大スクリーンで楽しむ『ゲーム施設』や『漫画喫茶』も完備する予定です」
「なっ……!?」
「さらに、地上で役人が来た時だけ『悲惨な追放令嬢』のフリをしてくれれば、それ以外の時間は一生、この快適な部屋でだらだらと贅沢三昧の生活を送る権利を保証します」
「一生……だらだら……?」
クロエの灰色の瞳が、ゆらゆらと揺れた。
脳裏に浮かぶのは、激務に追われ、上司に理不尽に叱責され、挙句の果てに無実の罪を着せられて追放された、王都での地獄のような日々。 そして、今目の前にあるのは、温かいサウナ、ふかふかのベッド、美味しいポテトチップス、そして自分を優しく受け入れてくれる温かい空間。
天秤にかけるまでもなかった。
「……決めましたわ」
クロエは静かに立ち上がると、だるだるのジャージの袖をぎゅっと握りしめ、力強く宣言した。
「王国への復讐なんて、心底どうでもよくなりましたわ! 私は一生、この部屋から出ません!!」
「即答ですね」
「当然ですわ! あんなクソみたいな王国、滅びようが知ったことではありません! 私のこの至高のダラダラ生活を脅かす存在があるとするなら、それこそが私の真の敵です!」
クロエは鼻息を荒くしながら俺の手に両手で握りつぶさんばかりに掴みかかってきた。
「アレン様! 私をこの地下帝国の終身名誉ニートとして雇ってくださいまし! 代わりに、私の持てる経済知識のすべてを捧げますわ! 王国がこの村に余計な干渉をしてこないよう、法律の抜け穴と税制の盲点を突き、裏から王国の経済をグチャグチャに破壊して差し上げます!」
「……急に頼もしい悪役に変貌しましたね」
「ふふふ……新作のコンソメパンチ味とノリ塩味のためなら、私は国家の一つや二つ、喜んで潰してみせますわ……!」
ニヤリと邪悪な笑みを浮かべるクロエ。 冷徹な元エリート官僚は、サウナとポテトチップスの前にあっさりと膝を折り、最強の『内通者』へと変貌を遂げたのだった。
「よーし! じゃあクロエさん、歓迎会やり直そう! 今度はチョコフォンデュだよ!」 「チョコ……!? なんですのその魅惑的な響きは……! 行きますわリリアさん!」
すっかり打ち解けた様子で、二人で仲良く大食堂へと走っていくリリアとクロエ。
(よしよし、最高の頭脳が手に入ったな)
二人を見送りながら、俺は満足げに頷いた。 悪逆王が送り込んできた刺客(追放者)は、今や俺たちの地下帝国を支える最強の参謀となった。
三日後の『森の主』の討伐命令。 王都の連中は俺たちが魔獣に食い殺されるのを期待しているだろうが、残念だったな。 俺たちはこの最高の参謀とともに、さらなる理不尽を『ポイント』へと変換し、王国を内側から食い破る準備を着々と進めていくのだから。




