#36 天界もブラック企業!? 社畜天使セラフィの受難
ペントハウスに満ちていた緊迫感は、一瞬にして妙な脱力感へと変わっていた。
「……え、ちょっと待って。人の話を聞けって言われても、メロン、本当に食べないの? すごく甘いよ?」
『だ、だからメロンの話ではないと言っているだろうがッ!!』
六枚の光り輝く翼を怒りで激しく羽ばたかせながら、天界の監査官――セラフィナ(通称セラフィ)は絶叫した。
銀糸の髪を振り乱し、黄金の双眸からは怒りの炎が燃え盛っている。本来であれば、下界の愚かな人間どもを神の威光でひれ伏させ、その傲慢な態度を正すために降臨したはずであった。
それなのに、現実はどうだ。
足元では神聖なる『天界の果実』を完食した白い毛玉が満足そうに腹を叩いて寝転がり、目の前の男はポテトチップスの袋を片手に呑気な顔でメロンを差し出してくる。さらに横からは、眼鏡を光らせた秘書が「天界の不動産査定」だの「M&A」だのと、不吉な単語を連発しているのだ。
「落ち着きなよ、えーっと……監査官さん?」
『セラフィナだ! 天界監査局・筆頭監査官セラフィナ=ヴァルキリア! 気安く呼ぶなッ!』
「じゃあセラフィね。ほら、立ちっぱなしも疲れるでしょ。とりあえず座って」
アレンがパチンと指を鳴らすと、ポイントで購入した最高級の低反発ソファがセラフィの背後にスーッとスライドしてきた。
ふくらはぎに柔らかいレザーが触れ、セラフィは「な、何だこの不審な家具は!?」と身構えたものの、連日の過重労働で限界を迎えていた足腰が耐えきれず、吸い寄せられるようにドサリと腰を下ろしてしまった。
「あ……っ!?」
沈み込むような極上の座り心地。
背もたれが背骨のカーブに完璧にフィットし、蓄積していた全身の疲労がふわっと雲の彼方へ溶け出していく感覚。
『んんっ……!? な、何だこの包み込まれるような感触は……! 天界の玉座よりも柔らかい……というか、腰の痛みが……!?』
「あ、それ人間工学に基づいて作られた最高級ランバーサポート付きソファだから。腰痛に効くでしょ」
アレンは満足そうに頷くと、脇で待機していたリリアに向かって軽く手を挙げた。
「リリア、セラフィさんに温かい紅茶と、焼き立てのパンケーキ持ってきてあげて」
「はーい! 特製のバターとはちみつたっぷりのやつですね!」
「い、要らん! 下界の汚れた食物など口にするつもりは――」
断ろうとしたセラフィの鼻腔を、香ばしいバターの香りと、甘く芳醇なメイプルシロップの香りが直撃した。
リリアが嬉々として運んできたのは、三段に重ねられた厚焼きのパンケーキ。その上には贅沢なほど大きなバターが乗せられ、トロリと溶けたシロップが黄金色の光を放っている。傍らに添えられたカップからは、極上の茶葉から立ち上る湯気が優しく広がっていた。
グゥゥゥゥゥ……。
静まり返ったペントハウスに、何とも情けない腹の虫の音が響き渡った。
「…………っ!?」
セラフィの顔が、髪の毛の先まで一瞬で真っ赤に染まる。
「あ、気にしないで。お腹空いてたんでしょ? 冷めないうちにどうぞ」
「い、言っておくが! これは毒見だ! 毒見だからなッ!」
真っ赤になった顔を背けつつ、セラフィは震える手でフォークとナイフを握りしめた。
一口サイズに切り分けたパンケーキを、恐る恐る口の中へと運ぶ。
――次の瞬間。
セラフィの脳内で、何かが弾けた。
『っ~!?!?』
口の中に広がったのは、今まで味わったこともない圧倒的な幸福感。
表面はサクッと香ばしく、中は驚くほどフワフワでモチモチ。噛むたびに溢れ出す濃厚なバターのコクと、シロップの上品な甘みが、疲れた身体の隅々にまで浸透していく。
「な、何だこれは……っ!? 甘い……温かい……そして、優しい……っ! これが……下界の食べ物……!?」
一口、また一口。
もはや言葉すら忘れ、凄まじい勢いでパンケーキを口に運ぶ監査官。
途中で温かい紅茶を口に含み、ホッと溜め息をついた時には、六枚の翼がパタパタと嬉しそうに羽ばたいていた。
「……ふぅ。で、セラフィ。天界の監査官様が、なんでそんなにお腹を空かせて、クマを作るほど疲れてるわけ?」
アレンの問いかけに、フォークを咥えたままのセラフィがビクッと肩を跳ねさせた。
「別に……疲れてなど……っ」
「嘘言いなさい。目の下に立派な黒いクマができてるし、翼のツヤも落ちてるわ。それに、その服の袖口……魔法で修復した痕があるけれど、かなり古い裁縫技術ね。まともな備品支給すら受けていないのではなくて?」
クロエが冷徹な視線でセラフィの着衣を指摘する。
図星を突かれたセラフィの肩が、目に見えて小さく萎んでいった。
「う……うぅ……っ」
「セラフィさん、大変だったんですか……? ほら、メロンもどうぞ。美味しいですよ?」
リリアが優しく差し出した一口サイズのメロンを、セラフィは涙目になりながらパクリと食べた。その甘さが、彼女の張り詰めていた心の糸を完全に切ってしまったらしい。
「うわぁぁぁぁぁぁんっ!! 酷いんだよぉぉぉっ!!」
突然、膝に顔をうずめて大号泣し始める天使。
威厳に満ちていた監査官の姿はどこへやら、完全に崩壊した社畜の姿がそこにあった。
「毎日毎日、早朝から深夜まで下界の監視業務! 休みなんて一千年間で一日もないんだからぁっ! それなのに主神様は『神に休息など不要! 信仰心が足りないのは下級天使たちの努力が足りないからだ!』って怒鳴るばかりで……っ! 予算も削減されて、手当も出なくて、食事は干からびた聖水とパサパサの小麦粉固めたやつだけでぇぇっ!」
「うわぁ……ドブラックだ」
アレンは引きつった笑いを浮かべた。前世のブラック企業時代を思い出し、不覚にも少し胃が痛くなってくる。
「手当が出ないどころか、今回の下界視察の遠征費だって全部自腹(自前の神聖力)なのよ!? 『カルマの異常数値を調査してこい、手ぶらで戻ったら減給(聖水削減)だ』って言われて……! 私だって……私だって、本当はフワフワのベッドで泥のように眠りたいのにぃぃぃっ!」
「なるほど。深刻な労働環境の悪化、および上層部によるパワハラと無給労働の強要……典型的ですわね」
クロエがノートにカリカリとペンを走らせる。
「セラフィナ様。天界の財政状況は、そこまで悪化しているのですか?」
「ひっく……う、うん。下界の人々が神様を信じなくなって、捧げられる『祈り(エネルギー)』が激減してるの。だから天界のサーバー……じゃなくて『理の維持システム』が老朽化しても修理できなくて……。そこにアレンが天文学的なポイント(カルマ)を一気に稼ぐから、システムの処理能力がオーバーフローを起こして、天界中が大パニックになってるの……っ!」
「あー、やっぱり俺のせいでもあったか」
アレンは頭を掻いた。
要するに、下界の人間が宗教離れを起こして天界が貧乏になっていたところへ、アレンがポイントの暴力で経済を激変させたため、古くなった天界の管理システムが悲鳴を上げたというわけだ。
そして、そのツケをすべて押し付けられて下界に飛ばされてきたのが、この哀れな社畜天使セラフィなのである。
「よし、分かった」
アレンはポンと手を叩き、ソファから立ち上がった。
「セラフィ。君、今日からうちに転職しなよ」
『えっ……?』
「うちなら完全週休三日制。有給消化率百パーセント。三食付きで、ベッドはフワフワのフェザー仕様。給料は今の天界の提示額の十倍出すよ。ついでに、君を苦しめてる天界のシステムごと、俺が買い取ってホワイト化してあげる」
『買……買い取る……!? 天界を……神々の住まう聖域をかい!?』
驚きで目を丸くするセラフィに向かって、クロエが不敵な笑みを浮かべながら書類を差し出した。
「ええ。アレン様のカンストしたカルマポイントを『天界復興ファンド』として注入すれば、老朽化したシステムなど一瞬で最新鋭にアップデート可能です。さらに、過労に喘ぐ下級天使たちを『リゾートの天空スタッフ』として高給で雇い入れれば、雇用問題も一発で解決いたしますわ」
「で、でも……主神様が許すわけないわ! あのお方はプライドが高くて――」
「プライドで腹は膨らまないよ」
アレンは優しくセラフィの頭を撫でた。
「君も、もう無理して戦わなくていいんだ。これからは美味しいものを食べて、温泉に入って、しっかり寝なよ」
「あ……うぅ……っ」
アレンの手の温もりと、あまりにも温かい言葉。
一千年間にわたって過酷な労働に耐え続けてきたセラフィの心は、あっけなく陥落した。
「ア、アレン様ぁぁぁっ! 私、天界の内部構造と主神様の隠し金庫の場所、全部しゃべりますからぁぁぁっ! 私を雇ってくださいぃぃぃっ!」
ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、アレンの服の裾にすがりつくセラフィ。
こうして、天界から遣わされた最高幹部の一人である筆頭監査官は、降臨してからわずか一時間足らずで、あっさりとアレンの配下(兼スパイ)へと寝返ったのであった。
「よしよし。じゃあまずは、セラフィの歓迎会から始めようか。リリア、特大のケーキ焼いてあげて」
「はいっ! 任せてください、アレン様!」
こうして、最強の元村人による国家買収劇は、ついに「天界のホワイト化」という新たな局面を迎えることとなった。
神々の住まう聖域すらも経済とホワイト待遇で飲み込んでいく、アレンのマイペースなスローライフは、まだまだ終わらない。




