#32 【番外編】オリビア隊長と、筋肉至上主義の新生ブートキャンプ
イハカ連邦の崩壊から数日後。
かつて『鉄鋼帝都』と呼ばれ、黒煙と排気ガスに覆われていた街の空は、アレンの投じたカルマポイントによる環境浄化システムによって、抜けるような青空を取り戻していた。
しかし、その澄み切った青空の下で、絶望の淵に立たされている者たちがいた。
「……なぁ、小隊長。俺たちは、明日には処刑されるんだろうか」
「馬鹿を言え。アレン社長はそんなお方ではない。だが……」
元・連邦軍の特務小隊長であったバルカンは、割り当てられた清潔でふかふかのベッドの上で、頭を抱えていた。
周囲には、かつて死線を共に潜り抜けた数十名の部下たちが、怯えた子羊のように身を寄せ合っている。
彼らは、ガルバ総統の支配下にあったイハカ連邦において、文字通り『殺人機械』として育て上げられた歴戦の兵士たちだった。地雷原を駆け抜け、魔獣と素手で格闘し、泥水を啜って生き延びてきた。
そんな彼らが今、なぜこれほどまでに追い詰められているのか。
答えは『圧倒的なホワイト待遇』である。
アレンが彼らに提示した雇用契約は、朝八時出社、夕方五時退社。完全週休三日制。三食の食事は星付きシェフ(ポイントで召喚された料理人)によるフルコース。シャワーはお湯が使い放題で、宿舎は冷暖房完備の完全個室。
これまで「睡眠時間三時間、食事は固い黒パンと謎のペーストのみ、給料未払い」という漆黒の環境で生きてきた彼らにとって、この平和すぎる環境は逆に精神を激しく削り取っていた。
『戦うこと』しか知らない彼らは、平和な日常の過ごし方がまったく分からないのだ。
「剣を握っていないと落ち着かない……」と庭の草を軍用ナイフで刈り取ろうとする者や、「毒見は俺がやる!」と朝食の極上オムレツを泣きながら丸飲みする者が続出。元兵士たちの間には、特有のノイローゼが蔓延しつつあった。
* * *
「――というわけで、彼ら元連邦兵のメンタルが限界らしいんだよね」
旧総統府を改装した豪奢なオフィスで、アレンは淹れたての紅茶を啜りながら、デスクの向こう側に立つ二人の側近に視線を向けた。
一人は、分厚い報告書を手にため息をつく元財務官のクロエ。
もう一人は、体にピッタリと張り付くスポーツウェアに身を包み、なぜか執務室の片隅で片手腕立て伏せをしている女騎士――オリビアである。
「クロエ、どうにか彼らをリゾートのスタッフとして活用できないかな? せっかく『警備&インストラクター部門』として再雇用したのに、このままじゃ宝の持ち腐れだよ」
「アレン様のおっしゃる通りですわ。彼らの忠誠心は本物ですが、いかんせん『接客』や『平和的解決』という概念がすっぽり抜け落ちております。一度、根本的な精神の再構築が必要かと」
クロエが眼鏡をクイッと押し上げたその時。
ビシッ! と、凄まじい風切り音を立ててオリビアが立ち上がった。その上腕二頭筋が、窓から差し込む太陽の光を反射してテラテラと輝いている。
「大家様! その件、ぜひ私にお任せください!」
「オリビア? 君に彼らの教育ができるの?」
「フッ……兵士たちが不安を抱える理由はただ一つ。有り余るエネルギーの『適切なぶつけ先』を知らないからです。ならば、私が彼らに新しい時代の戦い方を叩き込みましょう!」
オリビアは自信満々に、バキバキに割れた腹筋を見せつけるように胸を張った。
「流血の時代は終わりました。これからは……己の筋肉と語り合う時代です!」
「えっと、よく分からないけど……じゃあオリビア、彼らの再教育を頼んでいい?」
「ははっ! 我が大胸筋に懸けて、必ずや彼らを立派なリゾートスタッフへと鍛え上げてご覧に入れます!」
意気揚々と執務室を飛び出していくオリビア。
アレンは少し嫌な予感を覚えつつも、「まあ、連邦のブラックな訓練よりはマシだろう」と、残りの紅茶を飲み干した。
この時のアレンはまだ知らなかった。オリビアの『筋肉への情熱』が、致死性の兵器よりも遥かに恐ろしいということを。
* * *
翌朝。
元・連邦軍の広大な練兵場に、五百名の元兵士たちが整列していた。
彼らの表情は引き締まっている。ついに自分たちにも「軍務」が与えられたのだと、バルカン小隊長をはじめとする全員が、腰の剣の柄に手を当てて緊張感を高めていた。
そこへ、朝日に照らされながらオリビアが姿を現した。
彼女は演壇の上に立つと、大きく息を吸い込み、練兵場全体を揺るがすような大音声で叫んだ。
「総員、その腰にある物騒な鉄屑を捨てろッ!!」
「……は?」
「聞こえなかったのか! 剣を置け! ナイフも捨てろ! 暗器もすべて地面に並べろ! 今日から貴様らは、誰かの命を奪うための道具ではないッ!」
オリビアの気迫に押され、兵士たちは戸惑いながらも武装を解除し、地面に投げ捨てた。
丸腰となった彼らを見渡し、オリビアは満足げに頷く。
「よろしい。今日この瞬間より、『ウェルネス&フィットネス・ブートキャンプ』を開講する! 殺し合いなど古い! これからの時代は、己の筋肉との対話だ! 我々の使命は、お客様の安全を守り、健康的なリゾート体験を提供することにある。そのための究極の鎧とは何か? ――そう、筋肉である!」
オリビアは着ていたジャケットを勢いよく脱ぎ捨てた。タンクトップ越しにも分かる、彫刻のように完成された圧倒的な肉体美。
「まずは基礎訓練から始める! オリビア式・超絶高負荷スクワット、千回! 腰を落とす時は大地の鼓動を感じ、立ち上がる時は天を突くつもりで大腿四頭筋を収縮させろ! ワン、ツー! ワン、ツー!!」
「……す、スクワット? そんな準備体操のようなもので――」
バルカンが鼻で笑いかけた瞬間、オリビアの瞳が猛禽類のように鋭く細められた。
「甘い! 貴様のフォームは全く大臀筋に効いていないッ! 膝をつま先より前に出すな! 重力に抗え! 筋肉の悲鳴を子守唄だと思え!」
「ひっ!?」
オリビアの指導は、かつての連邦の鬼教官など赤子に思えるほどの苛烈さだった。
少しでもフォームが崩れれば、即座に激しい檄が飛んでくる。彼女はただ回数をこなすことを許さない。筋肉の繊維一本一本が極限まで追い込まれる「完璧なフォーム」を徹底的に強要した。
二百回を超えたあたりで、地雷原を無傷で駆け抜けた軽業師の兵士が「足が……足の感覚がない……っ!」と白目を剥いて倒れた。
五百回を超える頃には、魔獣の突進を受け止めた巨漢の兵士が「もう許してくれぇ! 膝が爆発するゥゥッ!」と泣き叫びながら地面を這いずり回っていた。
「まだまだァ! 貴様らの筋肉は今、殻を破ろうとして泣いているのだ! その涙を拭ってやれるのは、貴様自身の気合だけだぞ! さあ、筋肉に話しかけろ! 『お前はそんなもんじゃないだろう』と!」
致死性の兵器が飛び交う戦場の方が、まだマシだった。
銃弾は避けられる。しかし、己の肉体の内側から湧き上がる乳酸の地獄からは、絶対に逃げられないのだ。
地獄の千回スクワットが終わった後、練兵場はさながら激戦の直後のように、おびただしい数の屈強な男たちが地面に転がり、呻き声を上げていた。
「よし、よく耐え抜いた! 貴様らの筋肉が喜びに打ち震えているのが分かるぞ! だが、休んでいる暇はない!」
オリビアが指を鳴らすと、後方から大量の樽を積んだ荷馬車が運ばれてきた。
喉がカラカラだった兵士たちは、水がもらえるのだと這うようにして群がった。しかし、樽からジョッキに注がれたのは、ドロリとした謎の茶色い液体だった。
「隊、隊長……この泥水のようなものは……」
「泥水だと!? 馬鹿者、それはアレン様が特注で用意してくださった『超高純度ホエイプロテイン・ダブルチョコレート味』だ! 激しい破壊の後は、速やかな修復が必要不可欠! トレーニング後の三十分間は、筋肉のゴールデンタイム! 一滴残らず胃袋に流し込めぇッ!」
「む、無理だ……こんなドロドロの甘い汁、吐いちまう……っ!」
「飲めッ! 筋肉が飢え死にするぞ! 気合で飲み込め! 咀嚼してでも飲み込めッ!!」
オリビアの号令の下、屈強な兵士たちが涙と鼻水を流しながら、巨大なジョッキになみなみと注がれたプロテインを強制的に一気飲みさせられる。むせ返り、嗚咽を漏らしながらも、鬼神のごときオリビアのプレッシャーに逆らうことは誰にもできなかった。
* * *
それから数日。
『オリビアのブートキャンプ』は、日を追うごとにその狂気を増していった。
丸太を抱えての山岳マラソン。素手での巨大岩石粉砕。そして一日五回に及ぶ、厳密な時間管理の元でのプロテイン強制補給。
かつての「殺戮兵器」としてのアイデンティティは、極限の筋肉痛と超回復のサイクルの中で、完全に粉砕されていった。
ある日の夕暮れ時。
ついにバルカンは限界を迎え、ふらつく足でオリビアの前に進み出た。
「お、オリビア隊長……もう限界です。我々は兵士です。敵を殺すための存在です。こんな……見世物のような筋肉を鍛えて、一体何の意味があるというのですか……!」
血を吐くようなバルカンの問いかけに、周囲の兵士たちも悲痛な面持ちで頷いた。
平和な世界で、自分たちの存在意義が分からない。その苦悩が、筋肉の痛みと共に溢れ出したのだ。
しかし、オリビアは静かに首を振り、夕日に向かってゆっくりと『サイドチェスト』のポーズを決めた。
「バルカン。貴様のその大胸筋は、何のためにある?」
「……敵を、効率よく斬り伏せるため……」
「違うッ!!」
オリビアの筋肉が、夕日を反射して神々しいまでの光を放った。
「力とは、誰かを傷つけるためのものではない! 弱き者を守り、倒れた者を抱き起こし、そして――子供たちに安心を与えるためのものだ! 見ろ、貴様らのその鍛え上げられた肉体を! それは恐怖の象徴ではない。平和を支える、頼もしい大黒柱なのだ!」
オリビアの言葉に、バルカンはハッとして自分の両腕を見下ろした。
以前のような、飢えた獣のような細く研ぎ澄まされた腕ではない。連日の特訓と良質な栄養によってパンプアップされ、力強く隆起した逞しい腕。
もし、この腕で子供を抱き上げたなら。
もし、この胸板で迷子を安心させてやれたなら。
「俺たちの……筋肉は……誰かを笑顔にするために……?」
「そうだ。貴様らはもう、暗闇で血を流す必要はない。太陽の下で、その美しい筋肉を誇示し、リゾートを訪れる客たちに極上の安全と健康を提供するのだ。それが、我々『警備&インストラクター部門』の誇りである!」
オリビアが『フロント・ダブル・バイセップス』のポーズで力強く宣言すると、兵士たちの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼らの心にこびりついていたブラック国家の呪いが、完全に浄化された瞬間だった。
「隊長ぉぉぉっ! 俺、俺の広背筋は、誰かを守れますかァァァッ!?」
「当たり前だ! 空も飛べそうな見事な広がり(ラットスプレッド)ではないか!」
「大腿四頭筋が……俺の太ももが、誰かの盾になりたいと泣いていますッ!」
「いいぞ! その脚なら、城壁のごとくすべてを弾き返せるッ!」
夕日に照らされた練兵場に、男たちの熱い号泣が響き渡った。
* * *
一週間後。
アレンは視察のため、新設されたリゾートのプールエリアを訪れていた。
「うーん、みんなどうしてるかな。やっぱりまだ平和ボケに悩んで……」
アレンがプールの入り口を潜った瞬間、そこには異様な光景が広がっていた。
「ハッ! キレてるよ! 肩にちっちゃい重機乗ってるかい!」
「ナイスバルク! お前の腹筋、板チョコよりも綺麗に割れてるぜ!」
「さあお客様、準備体操はこちらのサンオイルを塗ってからです! スマイル、スマイルゥ!」
そこには、全身をテカテカにオイルで輝かせ、ボディビルダーのようにポーズを決めながら、リゾートの客に最高の笑顔で接客するマッチョな元兵士たちの姿があった。
手にはもちろん、プロテインの入ったシェイカーが握りしめられている。
「かんぱーい! 筋肉と平和に、乾杯ィィィッ!!」
満面の笑みでプロテインを乾杯するバルカンたちの姿を見て、アレンはポカンと口を開けたまま立ち尽くした。
「……オリビア、彼らに一体何をしたの?」
「フフッ、ただ『筋肉との語り合い方』を少し教えただけです。彼らはもう立派な、我々の仲間ですよ、大家様!」
白い歯を見せてサムズアップするオリビアと、その背後でキラキラと輝く筋肉の群れ。
イハカ連邦の誇った最強の暗殺部隊は、こうして世界一陽気で、世界一筋肉質な『リゾートインストラクター集団』へと見事な転生を遂げたのだった。




