#26 【番外編】ニート幻獣シロと、哀れな暗殺者たち
地下千メートルに建設された、アレンたちの常夏リゾート。
その最深部に位置し、都市全体の疑似太陽や気候維持魔法陣にエネルギーを供給している『超巨大魔力炉』の管理室。
室温は常に人間や動物にとって最も快適な二十二度に保たれ、床にはポイントで生成された最高級の低反発絨毯が敷き詰められている。
その絨毯の中央、魔力炉から漏れ出る心地よい温もりを背中に浴びながら、一匹の『ポメラニアン』が腹を出して大あくびをしていた。
「くぁぁぁぁ……ふぁっ」
ふわふわの白い毛並み。つぶらな黒い瞳。短く丸い手足。
どこからどう見ても愛らしい小型犬である。
しかし、彼の正体はただの犬ではない。
かつて旧王国の兵士たちから『呪われた森の主』として恐れられ、討伐隊を幾度となく壊滅させた伝説の幻獣・フェンリル。それが彼の本来の姿だ。
ただお腹を空かせて森を彷徨っていたところを、アレンの作った特製カルビ丼に胃袋を掴まれ、今や完全なる『ニート獣』として地下帝国に君臨しているのである。
(……うむ。今日の床の温度も完璧だな。それにしても、アレンの奴が新しく出してきたこの『国産黒毛和牛とサーモンの極上無添加ドッグフード』……口の中で肉の旨味が弾けて、たまらん美味さだ)
シロは短い前足で器用にドッグフードの粒を転がし、サクサクと音を立てて咀嚼する。
かつては雪に吹かれながら、硬い魔物の骨をかじって飢えを凌いでいた日々。今となっては信じられないほどのブラック環境だった。
エアコンの効いた部屋で、腹を出して寝転がり、お腹が減れば最高級の飯が出てくる。シロはもう二度と、あの過酷な森(野生)には戻るつもりはなかった。
――カチャリ。
その時、管理室の自動ドアが開いた。
シロが「お、おやつのおかわりか?」と期待して顔を上げると、そこに入ってきたのはアレンではなく、昨日この地下にやってきたばかりの銀髪のエルフ――セレスティアだった。
「わぁ……ここが、この地下の空気を綺麗にしている魔力炉の部屋なんですね……!」
セレスはエメラルドグリーンのサマードレスの裾を揺らしながら、巨大なクリスタルでできた魔力炉を見上げて感嘆の声を漏らした。
エルフの長として、この異常なほど清浄な魔力の源泉が気になって見学に来たらしい。
ふと、セレスの視線が足元の絨毯へと向いた。
「あっ……!」
セレスの翠玉の瞳が、パァァァッと輝いた。
そこには、ドッグフードのボウルの横で仰向けになり、短い尻尾をパタパタと振っている丸っこい毛玉がいたからだ。
「か、かわいいぃぃぃっ!」
セレスは魔力炉の観察など完全に忘れ、シロの元へと小走りで駆け寄った。
そして膝をつき、壊れ物を扱うような優しい手つきでシロの頭を撫で始めた。
「よしよし、いい子ですね〜。あなたはアレン様が飼っているワンちゃんですか? 真っ白で、ふわふわで……まるで雲みたいです」
(うむ。苦しゅうない。もっと顎の下を撫でるが良い、エルフの小娘よ)
シロは目を細め、喉をゴロゴロと鳴らした。
エルフ特有の自然魔力を帯びた手はひんやりとしていて、マッサージとしては非常に心地よい。セレスから漂う森の香りも、シロにとってはリラックス効果が高かった。
「ふふっ、可愛い……。私、ずっと動物を撫でてみたかったんです。連邦の施設には、冷たい機械と鉄格子しかなかったから……」
セレスの表情が少しだけ陰る。
だが、すぐに気を取り直したように微笑むと、シロのボウルに入っていたドッグフードを一粒つまんだ。
「これ、あなたのご飯ですか? はい、あーん」
(おおっ! 手渡しで飯を食わせてくれるのか。気が利く娘ではないか)
シロが嬉しそうに口を開けた、その時だった。
「あ、あーん……きゃっ!?」
セレスは自分のドレスの裾に膝を引っかけ、見事にバランスを崩した。
ドシャァッ! という情けない音とともに、顔面から絨毯に突っ込むエルフの族長。手から放り出されたドッグフードの粒が、空中を舞う。
(……相変わらずポンコツな奴だな)
シロはあくびを一つすると、空中に飛んだフードを首だけ伸ばして見事にパクッとキャッチした。
涙目で起き上がったセレスが「うぅ……何もないところで転んじゃいました……ごめんなさい、ワンちゃん……」と頭を撫でてくる。シロは「気にするな」とばかりに尻尾を振った。
平和な午後の一時。
しかし、その静寂は不快な『空間の歪み』によって唐突に破られた。
――ジジジジッ……!!
管理室の隅、空間が黒くねじ曲がり、三つの人影が音もなく出現した。
黒装束に身を包み、致死性の猛毒が塗られた短剣を構えた男たち。
イハカ連邦が誇る、特殊暗殺部隊『影蜘蛛』の精鋭たちであった。
「……空間転移成功。旧王国の魔力反応の源泉、ならびに目標のエルフ族長、捕捉した」
「やはりこの地下に逃げ込んでいたか。それにしても、なんだこの異常な魔力濃度は。空気が重いほどだぞ」
暗殺者たちは周囲を警戒しながら、冷酷な視線をセレスへと向けた。
彼らは連邦の切り札である『古代の空間転移魔導具』を使い、この地下空間の魔力源をピンポイントで狙って侵入してきたのだ。
「ひっ……!? あなたたちは……連邦の暗殺部隊!?」
セレスの顔から血の気が引いた。
逃げた自分たちを抹殺し、この謎の施設の制圧を目論む連邦の追手。
「エルフの族長よ。連邦の資産を勝手に持ち出した罪は重い。ここで死ね。……ついでに、その気色悪い魔力炉も破壊して、この施設ごと崩落させてやる」
リーダー格の暗殺者が、殺気を放ちながらジリジリと距離を詰めてくる。
(私が……私が止めなきゃ……!)
セレスは震える脚に鞭打ち、立ち上がった。
そして、恐怖でガチガチと歯を鳴らしながらも、シロの前に両手を広げて立ち塞がったのだ。
「こ、ここから先へは一歩も通しません! この子は……この可愛いワンちゃんは、私が絶対に守ります!!」
「はっ! 族長が自ら愛玩動物の盾になるか。馬鹿な女だ、その犬畜生ごと毒の刃で溶かしてやろう!」
暗殺者が地を蹴り、目にも留まらぬ速さでセレスへと短剣を突き出した。
セレスは精霊魔法を唱えようとしたが、極度の緊張で噛んでしまい、「せ、せいれいさっ、ひゃうっ!?」と情けない悲鳴を上げて目を瞑る。
絶体絶命のピンチ。
しかし――シロの目から見れば、それはあまりにも『遅すぎる』、そして『迷惑極まりない』茶番劇であった。
(……やれやれ。せっかくの食後の昼寝だというのに。どこから湧いて出たか知らんが、うるさい羽虫どもめ)
シロは、セレスの足元の隙間から、鬱陶しそうに顔を出した。
そして、ポメラニアンサイズのまま、迫り来る暗殺者に向けて――小さく『あくび』をした。
「ふぁぁぁ…………ガァッ!!」
直後。
あくびの最後の一瞬だけ、シロの背後に『山のように巨大な銀狼』の幻影が重なった。
――ドゴォォォォォォォォォンッ!!!!!
「「「がべァァァァァァッ!?」」」
シロの口から放たれたのは、ただの吐息ではない。
音速を遥かに超え、空間そのものを削り取る極大の『衝撃波』であった。
致死の刃を構えていた暗殺者たちは、シロに触れるどころか数メートル手前で、見えない巨大な壁に激突したかのように全身の骨を粉砕された。
そのまま虫けらのように吹き飛ばされ、魔力炉管理室の分厚い防音壁に深々とめり込み、白目を剥いて完全に気絶(一部は壁に刺さったままピクピクと痙攣)したのである。
「…………え?」
目を瞑っていたセレスが、恐る恐る目を開けた。
目の前にいたはずの暗殺者たちが消え、壁に三つの人型の穴が開いている。
「あ、あれ……? 連邦の精鋭が……なんで壁に埋まっているんでしょう……?」
セレスは呆然と周囲を見回した。
まさか足元の愛らしいポメラニアンがやったとは夢にも思わず、「私の噛んでしまった精霊魔法が、偶然暴発したのでしょうか……? 精霊さん、すごいです……!」と、あらぬ勘違いをして感動に打ち震えている。
(ふん。これだから貧弱な人間は困る。少し息を吐いただけで壊れてしまうではないか)
シロはブルブルと毛並みを整えると、何事もなかったかのように自分のクッションへと戻り、再び丸くなった。
騒がしいのは嫌いだ。今はただ、腹を満たして温かい床で寝ていたい。
「おーい、セレスさん、シロ。なんだかすごい音がしたけど、大丈夫――」
そこへ、騒ぎを聞きつけたアレンが管理室のドアを開けて入ってきた。
アレンの背後には、同じく警戒した表情のオリビアとクロエも続いている。
三人の視界に入ってきたのは、壁に突き刺さって意識を失っている連邦の暗殺者たちと、なぜか「私がやりました!」と言わんばかりに胸を張ってドヤ顔をしているセレス、そしてその足元で大あくびをしているシロの姿だった。
「アレン様! 見てください! 私、族長として連邦の追手からこのワンちゃんを守り抜きました!」
自信満々に宣言するセレス。
だが、壁にめり込んだ暗殺者たちの惨状(全身打撲と猛烈な獣の威圧による恐怖の失神)と、シロの口元についているドッグフードのカスを見たアレンたちは、一瞬ですべてを察した。
「……あのう、アレン殿」
オリビアが額に手を当てながら囁く。
「あれはどう見ても、シロが『昼寝の邪魔だ』と鼻息で吹き飛ばしただけの痕跡だぞ」
「……ですね。暗殺者の服には、微かに獣の魔力の残滓が付着しておりますわ。セレスティア様の魔法では、あのような物理的なクレーターはできませんの」
クロエも呆れたように眼鏡を押し上げる。
「うん……まあ、本人が喜んでるなら、そういうことにしておこうよ」
アレンは苦笑しながら、壁に突き刺さっている暗殺者たちに向けて指を鳴らした。
ポイントで生成された『自動捕縛スライム』が天井から降り注ぎ、暗殺者たちをグルグル巻きにして拘束していく。
「セレスさん、怪我がなくてよかったよ。でも、次は無理して前に出なくていいからね。この『ワンちゃん』……実はすごく強いんだ」
「えっ? こんなに小さくて可愛いのにですか? ふふっ、アレン様も冗談がお上手ですね」
セレスはシロを抱き上げ、頬ずりをした。
もふもふの毛玉と化したフェンリルは、「まあ、悪い気はしないな」とばかりにセレスの胸に収まり、スンスンと鼻を鳴らしている。
かつて王国軍百人を単騎で壊滅させた呪われた幻獣が、エルフの美少女に抱かれて満更でもない顔をしている。
そのあまりにも平和で間の抜けた光景に、アレンは深くため息をついた。
「イハカ連邦の奴ら、空間転移まで使ってちょっかいを出してくるようになったか」
捕縛された暗殺者たちを見下ろしながら、アレンの目がわずかに細められる。
「わざわざ俺たちのホーム(地下)に土足で踏み込んでくるとは、いい度胸だ。……そろそろ、本気であのブラック国家にお灸を据えてやらないといけないな」
圧倒的な兵力と冷酷な兵器で他国を蹂躙してきたイハカ連邦。
しかし彼らは、最も怒らせてはいけない「規格外の大家様」と「ニート化した伝説の幻獣」の逆鱗に触れてしまったことに、まだ気づいていなかった。
「よし、シロ。おやつのおかわりあげるから、後で連邦の拠点の場所、探るの手伝ってよ」
「ワゥッ!(任せておけ!)」
ドッグフードのおかわりという言葉に、ポメラニアンが元気よく吠えた。
迫り来る軍事国家の脅威すらも、彼らにとってはただの「日常のちょっとしたスパイス」でしかない。
理不尽を強いるブラック国家への、アレンたちの容赦ない「お仕置き」の準備が、着々と整いつつあった。




