#24 軍事国家イハカ連邦の野心と、逃亡者たち
旧アスタロト王国の東部国境に接する、深い原生林『迷い子の樹海』。
かつては王国と隣国『イハカ連邦』を隔てる天然の要塞として機能していたその森に、今、鋭い足音と荒い吐息が響き渡っていた。
「ハァ……ハァ……っ! みなさん、足を止めないでください! もう少し……もう少しで国境の川を越えられます!」
湿った苔と落ち葉を踏みしめ、ボロボロになった灰色のローブの裾を乱しながら走る一人の少女。
月光を浴びてほのかに輝く銀糸の長い髪、そして涙に濡れた翠玉の瞳。
彼女の名はセレスティア・エル・フェルン。連邦の過酷な支配に耐えかね、住み慣れた集落を捨てて脱出を図ったエルフ族の若き新族長であった。
彼女の背後には、同じく疲労困憊した数十人のエルフたちが必死についてきている。老人や幼い子供の手を引き、着の身着のままで逃げてきた彼らの表情には、濃い絶望の色が張り付いていた。
「セレスティア様……! もう、魔力が……」
「諦めてはいけません! 前族長様が……お父様が命をかけて作ってくださったこの機会を、無駄にするわけにはいかないのです!」
セレスティア――愛称セレスの手が、ギュッと強く握り締められる。
イハカ連邦は、極めて排他的で苛烈な強権政治を敷く軍事国家だった。彼らはエルフ族の持つ高い魔力と精霊との親和性に目をつけ、彼らを対等な市民としてではなく、軍事魔導兵器の『生きている魔力バッテリー』として地下施設に強制収容したのだ。
昼夜を問わぬ魔力の強制抽出。ろくな食事も与えられず、消耗品のように使い捨てられていく同胞たち。
耐えかねた前族長――セレスの父親は、命と引き換えに施設の大爆破を引き起こし、同胞たちを逃がす隙を作った。そして急遽、わずか百二十歳(エルフの年齢では新成人になったばかり)のセレスが、新しい族長としてこの重い重責を担うことになったのだ。
(私が……私がみんなを守らなきゃいけないのに! 族長として、しっかりしなきゃ……!)
胸中で必死に自分を叱咤するセレス。
だが、運命は嘲笑うかのように容赦なく追い打ちをかけてくる。
――ズシン! ズシン!
樹海の木々を暴力的に押し倒しながら、背後から迫ってくる不気味な重低音。
それは、イハカ連邦が誇る機械と魔法の結晶――『魔導機甲兵』の足音だった。
「見つけたぞ、逃亡魔導種族ども! 連邦の貴重な資源が勝手に逃げてもらっては困るな!」
樹冠を突き破って現れたのは、全身を黒鋼の装甲で固めた体長四メートルを超える二足歩行の魔導兵器三機。その後ろからは、高度な魔法銃を構えた連邦の追撃部隊数十名が、冷酷な笑みを浮かべて群がってきた。
「くっ……! ここまで来て……!」
「セレスティア様、お逃げください! 私たちはもう……っ」
倒れ込む子供を抱きかかえ、諦めかけた長老の言葉を、セレスは気迫のこもった叫びで遮った。
「いいえ! 誰一人見捨てたりしません! 私についてきてくれた皆さんは、私が絶対に守ります!」
セレスは震える脚に鞭打ち、エルフたちの先頭に躍り出た。
自分でも心臓が押し潰されそうなほど恐怖に打ち震えている。だが、新族長としての使命感が、彼女を突き動かしていた。
(大丈夫……お父様に教わった精霊魔法で、あの機甲兵の足を止めれば……!)
セレスは両手を天にかかげ、全身の魔力をかき集めて凛とした声を張り上げた。
「大気を渡る精霊よ! 我が誓いに応じ、猛き嵐の刃となって敵を穿て――『エアロ・スラ……っ、っふ……っくしゅんっ!!』」
悲壮感漂う最高潮の詠唱の瞬間。
夜の冷たい森の風が鼻腔をくすぐり、セレスは盛大にくしゃみをぶちかました。
――そよっ。
セレスの手から放たれたのは、猛烈な嵐の刃ではなく、追撃部隊の兵士たちの前髪を少し揺らしただけの、拍子抜けするほど温くて生ぬるい「そよ風」だった。
「…………え?」
静まり返る樹海。
セレスは両手をかかげた姿勢のまま固まり、追撃部隊の兵士たちもポカンと口を開けている。
「あ……あれ……? 精霊さん……?」
セレスの顔が、みるみるうちに耳の先端まで真っ赤に染まっていく。
「違うんです! 今のはくしゃみが……! ほんとうは、もっとすごい魔法が……っ!」
「は……ははははは! なんだあいつは! くしゃみで攻撃しようとしたのか!?」
「新しいギャグか!? 連邦の最新機甲兵に向かってそよ風とは、いい度胸だな!」
追撃部隊から爆笑が巻き起こった。
セレスは悔しさと恥ずかしさのあまり目角に涙を溜め、ぷくーっと頬を膨らませて地団太を踏んだ。
「わ、笑わないでくださいっ! 私は真面目に……真面目に皆さんを守ろうと……うぅっ!」
「ハン! まあいい、ポンコツ族長ごとお回収だ! 機甲兵、叩き潰せ!」
隊長の冷酷な号令とともに、巨大な魔導機甲兵が鉄の拳を持ち上げ、セレス目かけて振り下ろした。
凄まじい風圧がセレスの銀髪を吹き荒らす。
不運と失敗に彩られた若き族長の短い人生は、ここで潰えるかに思われた。
――その時である。
パァァァァァンッ!!
静寂の森に、どこか軽快で涼しげな「クラクションの音」が響き渡った。
直後。
樹海を破壊しながら躍り出てきたのは、巨大な装甲車……ではなく、色鮮やかなキャンピングカーのような謎の乗り物だった。
車体の側面にはトロピカルなヤシの木のイラストが描かれ、屋根の上には『超高性能・自動迎撃バンパー』と書かれた謎の魔法装置が輝いている。
ドゴォォォォンッ!!
「ギャぁぁぁぁっ!?」
一トンを超える重量の魔導機甲兵が、そのキャンピングカーのバンパーに掠っただけで、まるで紙屑のように吹き飛ばされ、遥か彼方の樹海へと消え去った。
「な……なんだと!?」
「なんだこのふざけた車は!?」
呆気にとられる追撃部隊の前に、プシューと音を立ててキャンピングカーの扉が開いた。
降りてきたのは、ラッシュガード風の私服を着て清涼飲料水の缶を持つ黒髪の青年・アレンと、優雅に日傘を差したスーツ姿のクロエ、そして大剣を肩に担いだオリビアであった。
「うーん、やっぱりポイントで買った『全自動ドライブ・キャンピングカー』は乗り心地が良いね。サスペンションが効いてて森の中でも揺れないや」
「ええ、アレン様。車内の冷蔵庫に冷えていたトロピカルジュースも絶品でしたわ」
「ふむ。だがアレン殿、途中で何か硬い虫のようなものを跳ね飛ばさなかったか?」
「気のせいじゃない? 小石でも跳ねたんでしょ」
能天気極まりない会話を交わしながら車から降りてくる三人。
追撃部隊の隊長は、額に青筋を立てて怒号を上げた。
「貴様ら何者だ! 我らはイハカ連邦軍であるぞ! 連邦の財産であるエルフの回収を妨害する気か!」
アレンはパチクリと目を瞬かせ、目の前に立ちすくむ連邦の兵士たちを見回した。
「イハカ連邦? ああ、旧王国の東にある国だっけ。……っていうか、ここ旧王国の敷地(俺の私有地)なんだけど。許可なく武装して立ち入るのは不法侵入だよ?」
「ハっ! アスタロト王国などすでに崩壊した破産国家だろうが! この土地はこれより我が連邦が接収――」
「話が通じそうにありませんわね、アレン様」
クロエがため息をつき、手元の端末を操作した。
「不法侵入、および私有地での違法な兵器の使用。……オリビアさん、害虫駆除をお願いできますかしら?」
「任せろ。久々の運動だ」
オリビアが一歩前に出た。
彼女が背中の大剣を抜き、軽く一閃した瞬間――。
ズバァァァァンッ!!
目にも留まらぬ真空の斬撃が森を駆け抜け、残っていた二機の魔導機甲兵と連邦兵たちの武器が、綺麗サッパリ真二つに切断された。
「ひぃぃぃぃぃっ!?」
「な、なんだこの女は!? 化け物か!?」
「全隊退却! 退却ぅぅぅっ!」
自慢の魔導兵器を一瞬で鉄くずにされた追撃部隊は、悲鳴を上げて一目散に連邦側へと逃げ出していったのだった。
* * *
静けさを取り戻した森の中。
崩れ落ちた機甲兵の残骸の横で、セレスティアは口をぐうの音も出ないほど開けて固まっていた。
(い、一瞬……!? 連邦が誇る最強の魔導兵器を、あんなにあっさりと……!?)
逃げてきたエルフたちも、恐怖と困惑でガタガタと震えている。
追手が去った今、次に自分たちを待っているのは、この規格外の強者たちによる「新たな支配」かもしれない。
アレンがゆっくりとセレスたちに歩み寄ってきた。
セレスの胸に、冷たい緊張が走る。
(だめ……弱気になっちゃだめ! 私がみんなを守るんだから……っ!)
セレスは膝の震えを必死に抑え、立ち上がった。
そして、アレンとエルフたちの間に割り込むように立ち塞がると、銀髪を揺らして、悲壮な覚悟を込めて叫んだ。
「私……私の命を差し出しますっ!」
「へ?」
アレンが首を傾げる。
「私はエルフ族の新族長、セレスティア・エル・フェルンです! 私には前族長譲りの強大な魔力があります! 精霊の加護も、私のこの命も、好きにしていただいて構いません! ですから……どうか!」
セレスはギュッと目を瞑り、深々と頭を下げた。
「どうか……この可哀想な同胞たちだけは見逃してください! 彼らには何の罪もないのです! 奴隷にでも何にでも、私一人で十分です!!」
己の身を挺して仲間を守ろうとする、あまりにも気高く、悲痛な自己犠牲の訴え。
後ろにいたエルフの長老たちが「セレスティア様……!」と涙を流す。
アレンたちの間に、重苦しい静寂が訪れ――。
――ぐきゅるるるぅぅぅぅぅぅっ!!
静まり返った深い森に、耳を疑うほどの大音量が響き渡った。
それは、雷鳴でも、魔獣の咆哮でもない。
悲壮な覚悟を決めた若き美貌の族長――セレスティアのお腹から発せられた、哀しいまでに切ない「空腹の叫び」であった。
「……………………え?」
セレスの動きが固まった。
頭を下げた姿勢のまま、ゆっくりと自分のペタンコなお腹を見つめる。
ぐぅぅぅぅぅ……と、追撃のように二発目の音が鳴り響いた。
連邦の施設から逃げ出して以来、数日間にわたって何も食べていなかった胃袋が、極度の緊張が解けた瞬間に限界を迎えたのだ。
「あ……あの……今のは……その……っ」
セレスの顔が、先ほどのくしゃみの比ではないほど真っ赤に沸騰した。
エメラルドの瞳からみるみるうちに涙が溢れ出し、彼女はその場にへたり込んで頭を抱えた。
「うぅぅぅぅ……っ! ち、違います! いまのは精霊の鳴き声で……私のお腹じゃなくて……うあぁぁぁんっ! 恥ずかしいよぉぉぉっ!!」
完璧にかっこよく決めるはずだった悲壮な直訴は、一瞬にして爆笑と困惑の渦へと消え去った。
「くっ……ふふっ、あははははっ! なんなのですか、この面白いお嬢さんは!」
クロエが腹を抱えて上品に(しかし盛大に)爆笑し始める。
「むう、見事なお腹の虫だな。兵士たるもの、腹が減っては戦はできん。良い鳴りっぷりだ!」
オリビアが感心したように頷く。
アレンはぽかんとしていたが、すぐに柔らかい苦笑いを浮かべると、キャンピングカーの扉を開けた。
そして、ポイントで生成したばかりの「焼きたての極上牛肉バーガー」と、冷たい果汁ジュースの入ったボトルを何十個も引っ張り出してきた。
「命なんていらないよ。俺たちはただ、ドライブに来ただけだからね」
アレンは屈み込み、うつむいて泣いているセレスの目の前に、香ばしい肉の匂いが漂うバーガーを差し出した。
「お腹空いてるんでしょ? 族長さん。……とりあえず、みんなでご飯にしようか」
鼻腔をくすぐる、今まで嗅いだこともない魅惑的な肉とソースの香り。
セレスはおそるおそる顔を上げ、涙目でアレンとバーガーを交互に見つめた。
「ほ、ほんとうに……食べて、良いのですか……? 毒とか……奴隷の契約とかじゃなくて……?」
「そんな面倒くさいことしないよ。ほら、冷めないうちにどうぞ」
セレスはゴクリと唾を飲み込み、震える手でバーガーを受け取ると、意を決して小さな口を大きく開けてかぶりついた。
瞬間――。
ジューシーな肉汁と、濃厚なチーズ、そしてフワフワのバンズの旨味が、セレスの口内に爆発的に広がった。
「んんんんんっ!?!?!?」
セレスのエメラルドの瞳が、落ちんばかりに見開かれた。
「おいしい……! なにこれ……なにこれぇぇぇっ! お肉がとろける……! パンが甘い……っ!」
あまりの美味しさに、セレスの口からボロボロと涙がこぼれ落ちる。
後ろにいたエルフたちにもバーガーや温かいスープが配られると、森のあちこちから「美味い……!」「生きてて良かった……!」と涙ながらの感動の声が上がり始めた。
夢中でバーガーを完食したセレスは、口の周りにソースをつけたまま、感動に震える手でアレンの手を両手で握りしめた。
「あ、あなた様は……神様なのですか……!? 私たちを救いに来てくださった、森の精霊王様なのですか……!?」
「いや、ただの元・村人だよ。今は……まあ、この土地の大家かな」
アレンは困ったように微笑み、クロエたちと視線を交わした。
「みんなボロボロだし、行く当てがないなら俺たちの場所に来る? 温かいお風呂も、美味しいご飯も、寝心地の良いベッドも山ほどあるよ」
「お風呂……? ベッド……?」
過酷な強制労働しか知らなかったセレスティアたちにとって、アレンの提案は夢物語どころか、天地がひっくり返るほどの衝撃だった。
こうして、イハカ連邦の圧政から逃れてきたエルフの一団は、アレンの手によって保護され、彼らが暮らす「地下帝国(常夏リゾート)」へと案内されることになったのである。
それが、自分たちの常識を根底から粉砕する「楽園」への入り口だとは知る由もなく――若きポンコツ族長セレスティアの、波乱に満ちた新たなスローライフが幕を開けようとしていた。




