#14 元・近衛騎士団長の華麗なる転職(ニート化)
「…………ここは、天国だろうか」
ふわり、と。
まるで雲の上に寝そべっているかのような、未知の浮遊感。
オリビア・ヴァルハイトが目を覚ました時、彼女の全身を包み込んでいたのは、生まれてこの方経験したことのない圧倒的な『柔らかさ』だった。
薄く目を開けると、目に飛び込んできたのは天井の柔らかな間接照明と、清潔な白い壁。微かにラベンダーの香りが漂うその部屋は、王宮のどの貴賓室よりも洗練された空気に満ちていた。
オリビアはゆっくりと身をよじる。
その瞬間、彼女の背中のラインに合わせて、寝具がまるで生き物のように形状を変え、優しく体重を分散させたのだ。
「なっ……この敷布団、私の動きに合わせて沈み込み……いや、押し返してくるだと……!? まるで、見えざる精霊が全身を下から支えているかのようだ……っ!」
彼女が寝ているのは、アレンがポイントで用意した『宇宙航空工学採用・最高級低反発マットレス』である。
長年、硬い木製の執務椅子や、野営地の冷たい岩の上で、重さ数十キロの甲冑を着たまま仮眠をとる生活を続けてきた彼女にとって、体圧を完全に分散させるこのマットレスは、まさにオーパーツ級の魔導具に等しかった。
(……痛くない。どこも、痛くないぞ……)
オリビアは毛布を跳ね除け、ベッドの上に立ち上がってみた。
昨晩、あの恐るべき『無重力マッサージチェア』によって全身のコリを物理的に粉砕され、その後の天然温泉で芯まで温められた彼女の肉体は、完全に生まれ変わっていた。
常に鉛のように重かった肩は羽のように軽く、動かすたびに悲鳴を上げていた腰には、微かな違和感すらない。
視界は驚くほどクリアで、頭の中を覆っていた分厚い霧が晴れたように思考が冴え渡っている。
「信じられん……。たった一晩で、蓄積された数年分の疲労が完全に消え去っている……。これが、この地下施設の力……」
窓(※アレンが設置した『擬似太陽光LED・風景投影ディスプレイ』)から差し込む暖かな光を浴びながら、オリビアは自身の身なりを確認した。
彼女が今着ているのは、アレンが用意してくれた『オーガニックコットン100%・極上の肌触りルームウェア』だ。淡いミントグリーンのゆったりとした上下は、肌に触れるたびにトロけるような心地よさを提供してくれる。
王国の威信を背負う近衛騎士団長としての、血と汗と鉄の匂いが染み付いた甲冑とは真逆の、徹底的に人間を甘やかすための衣服。
(……戻らなければ。私は、王国の剣。今日も朝から、第三騎士団の演習視察と、貴族院への予算折衝、そして……あの悪逆王への定時報告が……)
脳裏に、いつもの地獄のようなスケジュールの束が浮かび上がる。
機嫌が悪いというだけで手当たり次第に物を投げつけてくる国王。不正を隠蔽しようと裏工作に走る太った貴族たち。終わりの見えない書類の山。そして、またあの重苦しい甲冑に身を包み、睡眠時間二時間で駆け回る日々。
「…………」
オリビアは無言のまま、もう一度、低反発マットレスの上に『ぽふっ』とダイブした。
「……うん、無理だな」
ふかふかの枕に顔を埋め、王国最強の剣士はあっさりと真理に到達した。
一度この究極の快適さを知ってしまった肉体と精神は、もはや二度とあのブラックな職場環境には戻れない。戻った瞬間に、ストレスで発狂する自信があった。
「よし。私は昨日、任務中に殉職した。そういうことにしよう」
清々しいほどの早さで祖国を裏切り、己の死を偽装(脳内で)したオリビアは、もはや一片の迷いもない足取りで寝室のドアを開け、ラウンジへと向かった。
* * *
「あ、おはようオリビアさん。よく眠れた?」
「おはよう! ちょうど朝ごはんの準備ができたところだよ!」
広々とした大理石調のラウンジに顔を出すと、アレンとリリアが笑顔で出迎えてくれた。
キッチンカウンターには、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、新鮮なフルーツの香りが漂っている。
「……あぁ、おはようございます。その節は、色々と失礼な態度をとってしまい……」
オリビアが少し気まずそうに頭を下げると、ソファーの奥から、見覚えのある銀髪の少女がひょっこりと顔を出した。元・財務官僚のクロエである。
「あら、ようやく起きましたのね。おはようございます、元・近衛騎士団長殿」
「クロエ……。お前、その姿は一体……」
オリビアは絶句した。
かつて王宮ですれ違った際のクロエは、隙のないタイトスカートの制服に身を包み、常に分厚い帳簿と万年筆を持ち歩く、氷のように冷徹なエリート官僚だった。
しかし今の彼女は、だるだるのオーバーサイズジャージを着て、片手に『特大サイズのコーラ』、もう片手に『チーズ増し増しの朝用ピザ』を持っている。口元にはピザのソースがべったりと付いており、休日の怠惰な大学生そのものだった。
「ふふふ。驚くのも無理はありませんわ。これが『真の平和』の姿です。朝から高カロリーなジャンクフードを胃袋に流し込み、炭酸で流し込む。王宮の窮屈なマナーなど、ここでは無用の長物。私はこの地下で、欲望の赴くままに生きる『終身名誉ニート』としての確固たる地位を築きましたの」
ピザをかじりながら、胸を張ってニート宣言をするクロエ。
かつての同僚のあまりの変貌ぶりに、オリビアは呆れを通り越して感心すら覚えていた。
「なるほど……。お前がそこまで堕落……いや、順応しているとはな」
「オリビアさんも、早くこちらの世界へ来なさいな。アレン様にお願いすれば、朝から濃厚なとんこつラーメンだって出してくれますわよ?」
「いや、私は遠慮しておこう。騎士として、いや、一人の人間として、朝からそのような毒物を身体に入れることには抵抗がある。いくら任務から解放されたとはいえ、健康管理は基本中の――」
「あ、オリビアさんにはこっちを用意してるよ」
アレンが差し出したのは、大きなグラスにたっぷりと注がれた、色鮮やかな緑色の液体だった。
「これは……? 毒々しい色をしているが……」
「『AI配合・完全栄養グリーンスムージー(極)』だよ。ケール、ほうれん草、リンゴ、バナナに加えて、数十種類のスーパーフードと酵素、ビタミンを最適なバランスでブレンドしてあるんだ。昨日のマッサージと温泉で血行が良くなってるから、今これを飲めば、身体の細胞一つ一つに栄養が染み渡るはずだよ」
《『AI配合・完全栄養グリーンスムージー(極)』を購入。消費ポイント:500 pt》
「す、すむーじー……?」
オリビアは疑るような目でその緑色の液体を見つめたが、アレンを信じてグラスを手に取り、恐る恐る口に運んだ。
「――っ!?」
ごくり、と一口飲み込んだ瞬間。
オリビアの瞳孔が限界まで見開かれた。
(な、なんだこの味は……!? 見た目の青臭さとは裏腹に、フルーツの自然で濃厚な甘みが口いっぱいに広がり、それでいて後味は信じられないほど爽やか……! それだけではない。液体が食道を通り抜け、胃の粘膜に触れた瞬間から、まるで乾ききった砂漠にオアシスの水が染み込むように、身体中の細胞が歓喜の声を上げているのがわかる……っ!)
長年の干し肉と硬いパン、そして睡眠不足による極度の栄養失調状態だった彼女の肉体は、この一杯のスムージーに込められた規格外のビタミンとミネラルを、スポンジのように吸収していった。
「ごくっ、ごくっ、ごくごくごくごくごくッ!!」
「あ、ちょっとオリビアさん、そんなに勢いよく飲んだら……」
「ぷはぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
一息でグラスを空にしたオリビアは、天を仰いで大きな息を吐き出した。
その顔は、聖母のような穏やかさと、悟りを開いた僧侶のような清々しさに満ちていた。肌のツヤは一瞬にして蘇り、瞳には強烈な生命の光が宿っている。
「……アレン殿。これは、神の飲み物か?」
「いや、ただの野菜と果物のジュースだけど」
「素晴らしい……! 昨晩の温泉といい、このスムージーといい、この空間は私の傷ついた肉体を完璧に修復し、さらに高みへと引き上げてくれる! クロエ、お前がそんな油と糖の塊で身体を汚しているのが信じられん。私はこの健康的な生活を全力で享受させてもらうぞ!」
オリビアは空のグラスを握り締め、力強く宣言した。
ジャンクフードを愛し、怠惰を極めようとする『元・財務官僚クロエ』。
健康志向に目覚め、自己管理の徹底されたスローライフを志向する『元・近衛騎士団長オリビア』。
ここに、王国の元エリート二人による、奇妙な『地下ニートコンビ』が誕生した瞬間だった。
* * *
朝食後。
ラウンジの巨大ディスプレイの前で、早くも二人の元エリートによる『王国弱体化会議』が開かれていた。
「さて、アレン殿。私がこの素晴らしい地下施設に身を寄せるにあたり、一つだけ懸念がある」
ソファに深く腰掛け、ハーブティーを優雅に啜りながらオリビアが切り出した。
「懸念?」
「ああ。私が姿を消したとなれば、あの疑い深い悪逆王のことだ。必ず大規模な捜索隊を組織し、この辺境の村にまで探索の手を伸ばしてくるだろう。平穏な生活を守るためには、王国軍の動きを完全に掌握し、事前に無力化する必要がある」
「なるほど、確かに。面倒なことには巻き込まれたくないからね」
「そこで、これだ」
オリビアは持参していた革袋から、一枚の巨大な羊皮紙を取り出し、テーブルの上に広げた。
それは、王国全土の地形と、軍事拠点が記された『最高機密の軍事マップ』だった。
「なっ……ちょっとオリビアさん! これ、第一級国家機密の戦略地図じゃないですか! なんでこんなものを持ってるんですの!?」
「昨日、視察の帰りに執務室からそのまま持ってきてしまったのだ。どうせ捨てる予定だったからな。今となっては、ただの便利な情報源にすぎん」
かつての忠誠心など微塵も感じさせないオリビアの態度に、クロエは一瞬呆気にとられたが、すぐにニヤリと邪悪な笑みを浮かべた。
「……素晴らしいですわ。さすがは元・近衛騎士団長。内部事情は筒抜けというわけですね」
「当然だ。王国の軍事物資の輸送ルート、各砦の兵力配置、さらには指揮官たちの個人的な弱みまで、私の頭の中にすべて入っている」
オリビアは地図の一点を指差した。
「例えばここだ。王都から東の国境へ向かう『第三補給ルート』。現在、ここは悪逆王の息がかかったガリアス伯爵が管理しているが……実はこのルート、警備が極端に薄い時間帯が存在する。毎月十五日の深夜だ。この日、ガリアス伯爵は愛人の屋敷にこもり、護衛の兵士たちも酒宴を開いて職務を放棄している」
「まあ! 素晴らしい情報ですわ!」
クロエは持っていたピザを皿に置き、凄まじい勢いでメモを取り始めた。
「その第三補給ルートが手薄になるということは……王国の主要な魔石の流通を一時的に麻痺させることができますわね。私が財務官僚時代に仕込んだ『裏帳簿』のデータと照らし合わせれば……ふふふ、ガリアス伯爵の横領の証拠を反王党派の貴族に匿名でリークし、同時に商人の流通を意図的に遅延させれば……」
「王国の東部戦線は物資不足に陥り、軍の動きは完全にストップする。我々のいるこの辺境へ探索隊を派遣する余裕など、物理的に無くなるというわけだ」
「完璧ですわ! さらには、この混乱に乗じて王都の小麦の相場を操作すれば、悪逆王の直轄領の財政に致命的なダメージを与えることも……!」
「ああ、それなら西の穀倉地帯の関所を警備している部隊長が、実は重度のギャンブル依存症であることを利用すればいい。彼に少しばかりの『資金』をチラつかせれば、関所の通過記録などいくらでも改ざんできるぞ」
「最高ですわオリビアさん! あなた、最高のビジネスパートナーになれますわよ!」
「ふっ、騎士の戦術と官僚の経済学が合わされば、王国など赤子の手をひねるようなものだ」
健康志向のグリーンスムージーを片手に軍事機密をペラペラと漏らすオリビアと、ピザをかじりながら国家転覆レベルの経済テロを嬉々として計画するクロエ。
かつて王国を支えていた二本の柱は、今や完全に王国を内側から食い破る最凶の『害虫』へと変貌を遂げていた。
「…………」
その様子を少し離れた場所から見ていたアレンは、手元のコーヒーをすすりながら遠い目をした。
「……リリア。俺、ただのんびりスローライフを送りたいだけなんだけど、なんか同居人たちがものすごい勢いで国を滅ぼそうとしてない?」
「あはは! 二人ともすっごく楽しそうだから、いっか!」
「そうだね。楽しそうならいっか」
アレンにとって、王国がどうなろうと知ったことではない。
大切なのは、この快適な地下施設での生活が脅かされないことだけだ。優秀な元エリートたちが勝手に防衛線(という名の国家解体工作)を張ってくれるのなら、これほど楽なことはない。
(ポイントもまだまだ有り余ってるし、次はオリビアさんのために、地下にフィットネスジムとヨガスタジオでも作ってあげようかな)
《『完全防音・最新鋭AIパーソナルジム施設』を購入予約に追加しました》
かくして、王国の最強戦力をあっさりと取り込んだアレンの地下帝国は、その快適さと防衛力において、また一段と凶悪な進化を遂げたのであった。
地上では、近衛騎士団長の突然の失踪により王宮が大パニックに陥っていることなど露知らず、地下の平穏な朝は、和やかに過ぎていくのだった。




